001

家を出ると目の前を漆黒の猫が通過した。それを何気なく目で追い、姿が見えなくなった頃、頭上でカラスが羽ばたく。うっすら嫌な気配を感じながら歩き出せば、ぶちっと景気よくビーチサンダルの鼻緒が切れた。しばらく無言で立ち尽くしていると、そばの道を救急車が通過する。
びっくりするほど運が悪い。朝から目覚ましは壊れていたし、携帯の充電をしたはずなのに寝てる間にプラグが抜けてしまって結局充電できていないし、トイレに入れば紙がないし、朝食を食べようとすればバナナ一本しかなくて、おまけに親に、帰ってたっけ、なんて冷たい言葉を浴びせられ、持って帰ってきたはずの宿題は行方不明、ついでに財布も行方不明。起きてから数時間でこの有り様では、きっと今日はいいことがないのだろう。

ああ、出かけるのが億劫になってくる。それでも笠井は家へ戻り、どうせ300円だったのだからひと夏履き潰せばこんなものだと言い聞かせ、使い物にならないサンダルを捨てて他のものに履き替える。実家に残してあるそれは誰も履かないのでうっすら埃をかぶっていたが、この際文句は言っていられない。なんたって、もう時間が迫っている。
そうして遅刻をしないように家を出たつもりだったのに、電車の遅延で結局待ち合わせには遅れてしまった。連絡中に携帯は眠りについたので、自力で彼を見つけ出すしかない。都合のいいときだけの神様お願いします、俺にエスパーな能力を授けて下さい。電車の中では痴漢というより痴女に出会い、大切な何かを失うところだったりしたのだから、それぐらい願ったって罰は当たらないはずだ。人を殺すために夜な夜な磨いているとしか思えない、超ピンヒールに踏まれたりもしたのだから。

しかし神は笠井に微笑まなかったが、神などに頓着しない人は律儀にも待ち合わせ場所で待っていた。彼の姿を見た瞬間、この人を好きでよかったと、このときほど強く思ったことはなかったが、次の瞬間にはやはり今日は厄日であったのだと思い知らされた。律儀という奴ではない。ただ単に、そこにいてもいい理由があったからだ。

「……俺、早く着きすぎました?」
「あれ、思ったより早かったな」

笠井が声をかけた、笠井と待ち合わせをしていた、笠井が……せこい不幸も乗り越えて会いたかったその人は、満面の笑みで猫と戯れていた。待ち合わせを公園にしてしまったのがきっと不幸の始まりだったのだ。彼が戯れるのは夜より暗い黒猫で、金の瞳で一瞬笠井を見た、一瞬。
折角駅から走ってきたのに、例に漏れず走る途中でサンダルがすっ飛んで車道まで飛び出しどえらい目に遭ったり、坂道で大荷物の女性とぶつかって袋の中身がまた何故だかりんごで転がっていくのを試合より早く走って回収したり、日頃遭遇したことがないのに腰の曲がったおばあさんに声をかけられて交番まで案内したりしながらも、走ってきたのに!

どう考えても自分へ向けられてもいいはずの笑顔を彼は惜しみなく猫に降り注ぎ、ちらりとこっちを見ただけで、笠井の息が整うのを待つためだとしても、もう少し何か言ってくれてもいいんじゃないですか!?思考回路がショート寸前にまで追い込まれ、笠井はベンチにどかりと座り込む、もうこれがペンキ塗りたてでも不思議じゃない、もう何が起こっても知るもんか。座るだけでは体は持たず、ぐったりとベンチに横になる。馬鹿みたいに甘い声を出して、やたら人懐っこい黒猫の足で服を汚されながらも構い続けている男の横顔を見た。馬鹿、馬鹿、誰がって俺が。

「……みかみせんぱい」
「何?」
「キスしたい……」
「病気!?」

禿げて死ね!金だらいが落ちてきて死ね!宝くじに当たった直後に死ね!
ベンチで泣き崩れる笠井を前に、猫の前足を掴んだまま三上はひとりうろたえた。全てを悟った風に、黒猫だけがにゃあと鳴く。

 

060809

 

 

 

 

002

「……笠井、起きてる?」

タオルケットに包まって、規則正しい呼吸を繰り返す笠井をまたぐ。最近2軍から1軍へ、そしてまた逆への入れ替えがあり、笠井には厳しい状況が続いていた。疲労困憊なのだろう。部屋では夏バテ知らずの藤代がゲーム大会をしているので避難してきたらしい。笠井に気を使えと言う奴もいるが、藤代はちゃんと自分ことをわかっている。藤代が気を使ったところで、笠井はむしろ落ち込むばかりだろう。嫌いになれればいいのにと一度ぼやいたことがあった。
まだ風呂から上がってから間がないまま寝ているので、髪が濡れている。日頃は自分が布団が濡れると言う立場だが、そんな余裕もなかったのだろう。薄く開いた唇が目に留まり、一瞬の間に三上は自分の中で葛藤した。一瞬だけ、と言い聞かせ、心の中で謝り倒してキスをする。笠井はぴくりともしない。またいだまま身動きをとらない笠井を見下ろす。

日に焼けた肌に唇を落とし、首筋に軽く歯を立てる。笠井から反応がないのを確認し、そっとタオルケットを引き剥がした。シャツの裾が捲れて、白い脇腹が見える。熱い手の平を当てるとそこはひやりと冷たかった。風呂から上がるなり、扇風機の前に座り込んでいたのを思い出す。撫でる手でシャツを引き上げて、腕の日焼け跡に目を細めた。この季節、部活とは切り離せない。今日は特に日差しが強く、部内でも何人か具合を悪くした。その中でも笠井は涼しくなるまで走り続けていて、それを思いながら腕に触れる。熱い。太陽が一部を住まわせたようだ。3年は今日は模試だったので、三上はこの暑さを得ていない。

「ん」

笠井が小さくくしゃみをして、そうでなくとも罪悪感がのしかかっていた三上はたまらずベッドから転がり落ちた。よろけた着地が床を揺らして、三上は慌てて笠井を見たが、彼は夢から目覚めない。キスでも目覚めない眠り姫は、朝になれば目を覚ます。
激しい動悸の心臓を抑え、三上はじっと笠井を見つめた。そろそろとシャツを直し、タオルケットも掛け直す。手足が冷たい。そこでやっと部屋の冷房を付けっぱなしだったのに気がついて、三上はリモコンを探して窓を開けた。夜風が部屋に差し込み、それだけで十分涼しい夜、三上はひとりで汗をかく。シャツの首元を掴んで風を送り、溜息をついて窓の外を見下ろした。

何だか難しくなった。以前のように簡単に触れることができなくなって、ちょっとした悪戯にも躊躇する。やばい、本気で

「みかみせんぱい」

窓から落ちそうなショックをカーテンを掴んで耐える。レールが軋み、三上はゆっくり振り返った。ベッドの上の笠井は動かない。以前ならば、きっと寝ている笠井に何をしたって、自分は何も思わなかった。
明日しましょう。静かに、夜の風で誤魔化しながら声が飛散する。心臓が熱い。さっき触っただけで、笠井の熱がうつったのかもしれない。それで笠井の熱が引くのなら、俺はどんな熱さも受けてやろう。どうせ熱がりのこの体は、もう少し熱くたって同じことだ。悪戯に笠井に触れてはいけない気がして、しばらく窓のそばから笠井を眺めた。

 

060809

 

 

 

 

003

12時脱衣所。用件のみの端的なメールに、笠井は携帯を握り締める。メールが来たのは1時間ほど前だった。既に12時を回った時計を見ながら、深く息を吸う。このメールは強制ではない。数度深呼吸を繰り返し、笠井は決意して部屋を出た。廊下の証明は既に落とされ、非常用口を示す明かりだけを頼りに歩く。本当は夜中用に買ったペンライトを持っているが、わざわざ持っていくのはしゃくだった。こんな時間、おまけに明日は練習もない休日となれば、まだ幾つか明かりのついている部屋がある。ドアのわずかな隙間から明かりの漏れている部屋の前を通るときは特に意識して慎重に、出来るだけ足音を殺して目的の場所へ向かう。

大浴場の前までたどり着き、笠井は再び深呼吸をした。ポケットに握り締めていた携帯を入れて、ゆっくりドアを開ける。窓の外を見ていた三上がこっちを振り返った。笠井が動けずにいると、入ってこいよ、と小さく呟く。笠井が一歩踏み出した瞬間に、窓の外から誰かが顔をぬっと覗かせる。悲鳴を喉で殺して笠井は咄嗟に廊下へ飛び出しドアの陰に隠れた。

「うわっびびった!」
「三上外出?今日やめとけ、見回り出てる」
「げ、マジで?」

外から戻った友人を中へ入れ、三上は少し会話をしている。脱衣所へとなるとここから外、公園へというコースなのだが、どうも変更になりそうだ。ここにいるわけにもいかないので笠井はとりあえずそこから離れ、再び廊下を歩きだす。今の時間なら誰もいないだろう、と談話室へ。やはり無人で、クーラーも切ってあったが笠井はそこへ入り込む。真っ暗な中、携帯の明かりを頼りにソファーへたどり着いて三上にメールを送った。やはり談話室、とだけ簡潔に。息を殺して呼吸をし、真っ暗な談話室を眺める。廊下のわずかな明かりが差し込み、部屋の形は見える。誰かが忘れていった雑誌がある。そういやジャンプ読んでないなぁ、藤代読むの遅いんだもんなぁ。わずかに現実逃避をしてみたが、真っ暗な部屋がいつもと違って見えるせいで緊張してきた。

「笠井」

小声に肩を揺らしてしまう。振り返って三上を見て、彼が近付いてくるのを黙って見た。隣に座った三上は遠い。ずっと見たままでいると手持ち無沙汰に携帯を開き、時間だけを見てすぐにしまう。
二人部屋という寮の仕組み上、どちらかの部屋で会うということはそんなに気軽なことではない。笠井のルームメイト、藤代などは今では深く考えるのはやめたようだが、やはり正直に話した頃は気まずかった。対して三上のルームメイトである渋沢は、理解はある。しかし理解と感情はやはり別だ。寮内でも視線が気になり、自然夜中に外で会うことになる。それはそれでまた神経の削られることで、最近はあまりふたりで会うこともなかった。

「……あの」
「や……悪ィ、特に用は、なかった……」
「……うん」

自分の心臓の音が聞こえる。ダッセェ、三上が小さくつぶやいて、熱い手に手首を掴まれた。病気になりそう。つぶやき返す。
廊下から足音が近付いてきて、ふたりで息を飲む。着実に近付く足音、そうかと思えば人影がドアへ寄り、振り返っていた三上は慌てて笠井をソファーに静める。突然のことで、痛くはなかったがショック死を錯覚した笠井はソファーで悶えた。

「あれぇ、三上何してんの」
「お……お前こそ」
「忘れ物、その辺にジャンプねぇ?」
「……あぁ、これな。俺も忘れもん」

ジャンプを手にして三上はソファーを離れていく。あっすんげーぼろぼろじゃん、こんなとこに忘れたお前が悪い、会話を聞きながら笠井はただ息を殺す。三上も一緒に出て行きドアの音。

(……何してんだ俺……)

落ち着くまでじっとして、三上から再びメール、自習室。月明かりの入る、鍵のかかる部屋だ。密会にはもってこいよ、と笑う中西を思い出す。何でこうなったんだろう。

もう足音を殺す余裕もなくて、ただ自習室を目指した。入ってすぐに鍵をかけて、待っていた三上のそばへ寄って黙って手を取る。じっと顔を見上げて返された視線に恥ずかしくなるのに手を離せない。夏よりも熱い気がする。このまま溶けるんじゃないかと思ってしまう。手を繋ぐだけでこんなに照れるのに、これ以上の何ができるのかと三上が考えていることを笠井は知らない。

「あ……明日、遠出するか」
「……どこに」
「どっか、何か……人がいないとこ」
「俺はここでもいい」

邪魔が入るまでここでいい。体は幾らでも熱くなって、ふたりはまだ熱を逃す術を知らなかった。

 

060817

 

 

 

 

004

恋に落ちた。

マックス眠い。笠井がつぶやくなりベッドに倒れこみ、少し驚いた藤代は歯ブラシをくわえたまま笠井を見た。たった今まで歯ブラシくわえてうろうろするなよと小言を飛ばしてきた彼は、次の瞬間には眠りに落ちていたらしい。ゆっくり近付いてつついてみたが、起きそうな気配はなかった。ベッドに落ちたままの体勢で、どう考えても目が覚めたときに恐らく体の痛みを訴えて藤代のせいにするだろうことは容易に予想でき、どうにかベッドまで持ち上げてやろうとしたが、口の端から涎が垂れそうでやめた。せめて布団をかけて藤代は洗面所へ向かう。

「藤代……お前、歯を磨きながらうろつくな」
「はふへん」
「喋るな」

洗面所にいた渋沢は顔をしかめた。おかしいと思ったんだ、誰もいないのに電気がついていたから。まるでお母さんのようなことをつぶやく。誰かに話したくて藤代は素早く口をゆすぎ、改めてキャプテン、と呼びかける。

「最近タクがおもしれーんスよ」
「笠井がどうした」
「なんつーか、青春ーって感じ。馬鹿みたいにがむしゃらに、さっきも一瞬で寝ちゃったんスよ。そうなるまで一生懸命でさー、なんか俺ついてけねーってか、俺まで頑張っちゃうってか」
「……そうだな。前は何だか、こういうのもなんだが……気の入り方が違うと言うか」
「ちゅーかぜってーカッコつけてるだけだけどなー」
「笠井はそういう奴じゃないだろ?」
「あー、女の子にじゃなくて。だってあいつ女にはそんなに興味ないし」
「ああ……」
「三上先輩がさ、あんなキャラでめっちゃ頑張る人じゃん、だから笠井はそれより頑張ってやろーとしてるんだと、俺は思うんスよね」
「悪かったな」

藤代の背後に三上が現れ、それはそれは不機嫌な表情でふたりを睨みつけている。三上のそんな表情など慣れっこで、そんな風に見られてもふたりにダメージは無いのだが。それでもここで揉められると面倒なので、渋沢は藤代を追い返す。

「……悪役にしたきゃしやあがれ」
「……」

ほんとに、この男はどうしようもない。今の話のどこを取れば三上は悪役になるのだろう。笠井にとって三上がマイナスになっているはずはない。勿論三上にとってもそうだろう、渋沢から見ても、笠井と出会ってから三上が変わっているのはわかる。恋は盲目、ってこういう意味にも使うんだろうか。やけくそで歯を磨いている三上を見ながら、お前らだから受け入れてしまったんだろうなぁと考える。

 

060925

 

 

 

 

005

「そういやさ、今日凄かったんだよ。中西先輩達喧嘩してるみたいで、部活中も」
「あ、うん三上先輩言ってた。なんか辰巳先輩に浮気疑惑らしいけど、どこまでほんとかなぁ」
「でも辰巳先輩意外にむっつりじゃん」
「三上先輩ほどじゃないけどねー」
「……」

勉強机に向かう笠井の後ろ姿を見て、藤代は雑誌を閉じた。あ、でも三上先輩と比べるのは失礼だなぁ、笠井が笑う。

「……トコロデ、今度のテストいつからでしたっけ」
「お前またそういう…あと2週間しかありません」
「2週間しか?タク前は2週間もって言ってなかった?」
「あー…先輩が言うからな…あの人真面目すぎるよね」
「むっつりで真面目ってなんだよ」
「あは、そりゃそうだけど」
「数学の範囲ってやたら広かったよなぁ」
「うん…あー、俺また三上先輩頼りそうだなぁ…」
「あ、なんかコンビニ行きたくなってきた」
「えー、あ、今なら三上先輩帰る途中だからメールしてみれば?図書館行くって言ってたし」
「えー、三上先輩に〜?」
「でもあの人頼めば買ってくるよ」
「タクだけだって」
「…むしろ誠二以外?」
「うわっ」

笠井は笑って携帯を手にする。何がほしいの?と既に文面を打ちながら振り返った。ジュースとスナックを頼み、笠井はメールを送信する。

「……なぁ、無意識?」
「何が?」
「や、なんでも」

手の中の携帯が振動し、返事早ッと呟きながらも笠井は返事を返している。その表情を見ながら、藤代は馬鹿らしくなってベッドに転がった。

(何言っても三上先輩出てくる…)

愛されてやがる。別に三上は嫌いじゃないが、こうなるとなんとなく面白くない。笠井を取られてしまったような、変な意識がある。付き合いだしたことを打ち明けられてから、ことあるごとに三上の名を聞くようになった。確かに他に三上の名前を出して話ができる人間は限られているから、気持ちはわからなくもない。
春、同室になってから、打ち解けるのにどれほど時間がかかったか。誰とでも仲良くなれる藤代には最難関だったのだ。それこそ恋でもしているように必死になって。それなのに藤代が知らない夏の間に付き合うことになっていて、おまけにふたりでいるのを見てしまわなければ知らないままだったかもしれない。

(……無意識にノロケ聞かされる俺の身にもなればいいのに)

そのままメールは続いている。やるべき課題を忘れさせることは、藤代には難しい。

 

060925

 

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