048True

※未来の話

 

 

「三上クンって、彼女いないの?」

久しぶりに感じる異性を見る視線に、惹かれるものがなかったと言えば嘘になる。しかしそれを見て思い出したのは笠井のことで、春からずっとそうだったように、へらっと笑ってごまかした。

「その辺はまあ、それなり」
「何それー」
「えっ、お前彼女いんの!?」
「な、何だよ」

過敏に反応したのが笠井のことを知っているはずの近藤で、酔っているのかと疑った。中学の頃から、あの頃から4年、三上はずっと笠井とつき合ってきた。同性とつき合っているという事実を受け入れてくれた近藤が、それを知らないはずがない。何度となく喧嘩しながらも続いてきた、強い絆があるのだ。それは三上が大学に進学したって変わらない。

「何って、え、初耳!」
「だから、なんだよ!知ってるだろ!」
「知らねえよ!何だよ言えよー!」
「だから!……笠井だって」
「え?……ヨリ戻したの?」
「喧嘩してねえよ、最近は」
「え、だって……」
「勝手に別れたことにすんなよ」
「……あー、ワリ、最近お前らの話聞いてなかったから多分勘違いだわ。何だよ〜俺心配してて損した〜!」

笑う近藤をどついてやると更に笑ってごまかされる。タイミングよく遅れていたメンバーがやってきて、幹事の近藤はいそいそとそちらへ向かった。しょうがないやつだ、思いながらビールを口に運ぶ。同じ大学へ進学した近藤とは学部も同じという偶然で、関係が続くことも人生の中ではあるのだと、もう夏になった今ではまったく連絡を取っていない友人たちを思い返しながら思う。
テストの終わった打ち上げを、と集まった今回の狙いは、寒い受験戦争を突破し、生活にも慣れ、大学で彼氏彼女を作ろうと意気込む輩が主催で行われている。ハンターの目だ。大学でももてるんでしょうね、などと拗ねていたかわいい後輩を思い出し、少し気分がよくなる。──そう言えば、しばらくテストや慣れないレポートが続き、向こうも全国大会があったので会っていない。そろそろ恋しくなってきて、大会に応援でも行こうか、と考える。

「なぁんだ、彼女いるんだ」
「まあね」
「学部?」
「いや、高校の後輩」
「マジで?心配だね」
「いや、まあなぁ」

男子校だし、と言いかけてやめる。大学に入ってから少し嬉しいのは、会わせることのない恋人の話ができることだった。一部の友人しか関係を知らず、こそこそと隠れてつき合って来たことが嘘のように、恋人がいるのだと胸を張って言える。 考えていたら会いたくなってきた。トイレへ抜けた時間に大会の成績を聞くのも兼ねてメールを送ったが返事はない。見れば時間はもう10時を回っていた。大会を勝ち進み、ましてや全国ならば、今頃寮全体で就寝だろう。笠井もいつもそうだった。寝つきの悪い彼がことりと眠ってしまうのが見たくて、毎年のこの時期は三上のちょっとした楽しみでもあったのだ。明日には返事があるだろう。
そのうちお開きとなり、方向ごとに酔っ払いを引き取って別れていく。実家通いの近藤は始めからひとり暮らしの三上の部屋に泊まる予定だったので、ふらつく友人を支えながら帰った。結局戦績はかんばしくなかったようで、いささかたちが悪い酔い方だ。

「ほら、鍵開ける間ぐらい自力で立てよ」
「もー、お前はなんでそうもてるかねー。今日ガチでお前に関する相談受けて、あーもーへこむわー」
「はいはい、俺は笠井ひとりで十分だから適当に流しとけよ」
「……なあ」
「んー?ほら入れ、ベッド貸してやるから」

近藤を押し込み、鍵を閉めると先に部屋に入る。とにかく水を飲ませてやろう。のそりと入ってきた近藤を振り返ると酔いの色は引き、まじめな顔で三上を見ている。少し様子がおかしいな、悪酔いしたのか、思いながらコップを渡すと素直に受け取った。しかし飲まずに三上を見ている。

「なあ、マジで、まだ笠井とつき合ってんの?」
「なんだよしつこいな、もし別れてれば言ってるって」
「そう、か……だよな……」
「なんだよ」
「ワリ、やっぱり藤代の勘違いだわ」
「藤代?」

突然出てきた後輩の名に眉をひそめる。近いうちにプロ契約を決めるんじゃないかと噂されている後輩は、何だかんだでひとつ上の世代が好きだったようで、意外とまめに連絡がくる。しかしその藤代がどうして出てくるのだろう。三上が黙り込んでいると近藤は水を飲んで、ごめん、と笑う。

「藤代がなんて?」
「もういいって、勘違い」
「何言ってたんだよ」
「……だから、笠井が三上とは終わったって言ってて、彼女ができたって」
「は……?」
「だから勘違いだろ!お前らが別れてないならさ、笠井が二股なんてするわけねえし」
「……お前それ藤代に騙されてたんじゃねえの?」
「マジそうかも。あーもーやられた……中西もグルだよなー」
「中西も言ってんのか」
「はめられた、クッソ……しょうがねえなあいつら」
「ほんとにな」

中西が絡んでいるのなら騙されたという選択肢しか残されない。あの悪友は事態をひっかき回すのが三度の飯より好きかもしれないという性格だから、後輩の悪ノリに乗ったのだろう。好きそうなネタだ。

近藤にベッドを譲り、三上はソファーに腰を落とす。ひとりがけのソファーは笠井が気に入っているものだ。そう言えばしばらくここにおさまっている姿を見ていない。テストも片づいたし大会が終わればまた呼んでゆっくりさせてやろう。ここのところ忙しくてろくに連絡も取れていないが、それは元々のことだ。長いつき合いだが携帯を使ったやり取りはあまりしたことがない。ふと携帯を見てみれば最後に連絡したのはもうひと月も前だった。期間にすると随分開いたような気はするが、そんな感覚はあんまりない。忙しかったせいだろう。一緒に走り回っている間は同じ屋根の下で生活しており、顔を見ない日は帰省時ぐらいだった。
中学の最終学年、今となってはあの頃どうして笠井を好きになったのかはわからない。冷静になって思い出すのは試合中の鋭い視線。大学の部活は想像していたほど厳しくなく、あの頃の熱がほしくなるせいかもしれない。

(エロい笠井が、見てえなあ〜……)

日付も変わると思った頃、手にしていた携帯が振動する。見ると新着メールは藤代からで、決勝進出!の字がそれだけで踊っている。それに苦笑して、早く寝ろ、とだけ返事をした。明日また詳細を聞こう。引っ張っていくだけのキャプテンをしている藤代と、それを支えるのが副キャプテンの笠井で、バランスがとれているのだと思う。自分たちをまとめた渋沢の存在は大きすぎて、今藤代と笠井がふたりでこなす役割をひとりでしていた。今はプロの世界で活躍する渋沢にも会いたくなる。疲れてるのかもしれない。笠井に会いたくて目を閉じた。

初めはあの生意気な後輩が嫌いだった。あの強気な瞳が嫌いなのだと思っていた。あれはもしかしたら、あの頃から惹かれていたのかもしれない。自分より細い手足、丸い指先、選びながら言葉をつむぐ唇、何が自分を引きつけるのか。気づいたらそばにいたあの存在は、サッカーと似たようなものなのかもしれない。もう一生手放すことがないだろう。照れくさくて使えない愛してるの言葉は、きっとこんな感情を表すのだ。
少し寝苦しい夜、昔を思い返しながら眠る。両手に抱えきれない思い出は多すぎて、ときに持て余す。だから本物がほしい。

 

 

*

 

 

袖を掴む手が無言で訴えた。強くなる力に応えて手を取り、その体を抱きしめる。もう覚えた形は三上の心を落ち着かせる。庇護欲にも似た気持ちなのかもしれない。最後に会ったあの日の笠井の手の感触が、ずっと忘れられなかった。

グランドを駆け上がる笠井の姿を見ながら、思わず笑みが浮かぶ。あまり邪魔になってはいけないだろうと2階の観客席から見ているがすぐにわかる。試合に出ているのも三上が指導してきた後輩たちばかりで、ピッチを駆け上がる様子に成長が見て取れて嬉しくなった。確かにここに残してきたものがある。ここまで吹いてくる風が選手たちの体を、頭を、冷やしてくれればいいと思う。 藤代の蹴ったボールがゴールネットを揺らす。先日渋沢が来て丸1日つき合ったというから、今の藤代は特にボールに対して鋭くなっているようだ。

「盛り上がってるな」
「……よう、久しぶり」
「ああ」

背後から現れたのは辰巳だ。彼を見るのは本当に久しぶりで、懐かしい思いがこみ上げる。同時に確かにあの場の熱からは離れたのだと実感した。渋沢と並んで頼りがいのあったこの男は、今はサッカーから離れてしまった。サッカーが日常から離れるということはどんな生活になるのだろう。少し表情が柔らかくなった気がする。戻った、という表現の方が相応しいのかもしれない。中学の頃はこんな顔つきをしていた。高校卒業前になると彼には悩み事が多かったようで、険しい顔をしていることが多かったように思う。

「中西は今日はいねえの」
「後で来る。試合に間に合うかはわからんと言ってたけどな」
「おーお、勝っといてもらわねえとな」
「勝つだろ」
「まあな」 「間宮がよくなってるな。ボールさばきが早くなった」
「怖いのは藤代だけどな。集中力が増した」
「まあ決勝ってこともあるけどな、藤代は元々格下相手には緩みがちだから」
「何にせよここまできてまだ成長してるってのは恐ろしいな」
「いいじゃないか、日本のサッカーは安泰だ」

また1点、相手のゴールにボールが飛び込む。武蔵森優勢の4対1、残り時間は5分とない。気の緩みかけたグランドで、藤代がもう1本!と叫ぶのが聞こえてくる。後輩の背中を押して走る藤代の姿に誰かを思い出した。

「……根岸は元気かな」
「……元気なんじゃねえの?便りがないのはなんちゃらってな」
「そうだな。下行かないか、監督に挨拶してこないと」
「あー、顔見てくっか。老けてねえかな」
「あの藤代が部長だからなあ」
「藤代中西コンビじゃなくなっただけましじゃねえ?」
「それは嫌味か?」
「いーえ、誰かさんが手綱握っててくれたお陰でいろいろと助けられました」

ベンチの方に降りていく。風が抜けずに空気がこもっているのが懐かしい。最早試合の勝利を確信したベンチは和やかだ。それでも試合を真剣に見つめる桐原を見つけ、辰巳と視線を合わせて試合が終わるのを待つことにする。緑のまぶしいグランドにホイッスルが響いた。沸き上がる歓声に選手たちが折り重なって溢れる喜びをわかちあっている。目を細めてベンチの選手を振り返った桐原が三上たちに気づき、どこか呆れたような様子で立ち上がる。

「あ、三上先輩!」
「辰巳先輩!」
「おら、グランド整列してっぞ」
「あっ」

グランドに向かって背筋を伸ばす。風がユニフォームをはためかせ、22人の声がこだました。

「ありがとうございました!」

邪魔だと桐原に追い払われ、表彰式が終わるまでまた客席に戻ることにする。離れていても選手たちの涙はわかった。嬉しさも、悔しさも、三上はどちらも知っている。何も言わない三上に辰巳が口を開いた。

「懐かしい」
「1年前なのにな」
「俺は戻れない場所だ」
「俺もだよ。やっぱり違う」
「……楽しかったな。わずらわしいしがらみも、今となってはいい思い出になる」
「じじくせーこと言うなよ」
「隠居したんだ、似たようなもんだよ」
「試合終わったのねー」
「よう」

ふたりの間に割り込んできた中西に苦笑する。何してたんだと聞けば、教授に捕まった、と顔をしかめた。

「さぼろうと思ったのにさー、もー運悪くトイレで捕まっちゃって。そのまま授業に連行よ。勝ったのね」
「ああ、4-1」
「圧勝じゃん」
「始めから見てたけど、あっちのキーパーちょっと調子悪かったみたいだな」
「あら、三上暇なのね」
「……どういう意味だ」
「全然捕まらないって聞いてたから、彼女でもできたのかと思ってた」
「せんぱーい!」

駆け上がってきた藤代が辰巳の背中に飛びついた。ぐっとこらえた辰巳にけらけら笑う藤代に涙はない。中西に足を叩かれながらも俺かっこよかったっしょ!と騒ぐ様子は1年前と何もわからない。羨ましくなるほど天真爛漫な男だ。後からあがってきた笠井がまず藤代を怒鳴りつける。笠井の「ばか!」も久しぶりだ。

「お前なあ、こっそりミーティング抜け出すなよ!最後なんだよ!?最後にキャプテンから挨拶、ってふった俺の身にもなってみろ!」
「うわ、タクだっせえ〜」
「マジムカつくほんっとムカつく!あっ中西先輩こんにちは!」
「久しぶり。相変わらずね」

苦笑する中西を見た後、笠井の視線は三上に流れた。一瞬感じたぎこちなさはしばらく会っていなかったせいか、すぐに表情を緩めて三上先輩もお久しぶりです、と口を開く。嫌味でも飛び出すかと思ったがそれきりで、まだ辰巳にしがみついたままの藤代を中西と一緒に叩いていた。

「ほら、締めくくり!」
「はいはい。先輩たちまだ帰んないっすよね?何かおごってよ」
「うっわ生意気。俺はこれから辰巳とデートなの、ここに来たのはついで!」
「なんでー、ケチー」
「ほら行くよ。恥ずかしいなー戻るの」

藤代のユニフォームを引っ張って笠井たちは戻っていく。まったく、辰巳が深く溜息をついた。しかし苦笑混じりではその感情も知れている。

「デートなの?」
「そう。アウトレットできたから行こうかって。辰巳んち食器ないんだよね」
「誰だ減らしていったのは」
「誰よ、どっかの女みたいに皿数えてるやつ」
「ほんっとに変わんねえな、お前らも」
「……俺は三上が変わってないことにちょっとびっくりだけどね」
「は?」
「だって笠井と別れたんでしょ?」
「またその話かよ。近藤は騙せても俺を騙せるネタじゃねえだろ」
「……は?」

中西の表情に嘘は見えず、いぶかしげに眉間にしわを寄せたまま辰巳と顔を見合わせた。その意味がわからずに三上も顔をしかめる。

「……笠井と別れたんだよね?」
「別れてねえよ」
「ほんとに?」
「なんだよさっきから!」
「だって……あっちに女の子いるの、わかる?白いパーカーの子」

中西が指さす方を見れば、長い髪が風でもつれないか気にしている女の子がいる。3人のグループのひとりで、誰か好きな相手でもいたのだろう。それがどうしたと視線で返せば、中西は困った顔をした。あまり見たことのない表情だ。

「あのさあ、なんでかよくわかんないけど、一応教えとく」
「何?」
「あの子、笠井の彼女」
「あのなあ」
「俺今だけは受験のときより本気。ちゃんと紹介されたし、エイプリルフールでもなかったから、笠井が嘘つきじゃない限りマジだから」
「……なんだよそれ」

また彼女を見遣ればグランドを見下ろして、笠井くんまだかなあ、などと聞こえてきた。少し離れているせいでそれ以外は聞き取れなかったが、体がかたくなるのがわかる。中西のこんな態度は見たことがない。よく見れば彼女には見覚えがある。この春の試合のときだろうか。

「……三上、お前、最後に笠井と会ったのいつ?」

──いつ、だろう。今月はレポートで精一杯で、先月は練習試合が多かった。その前は始めたバイトに慣れずに働いてばかりで……

「メールきた!」

高い声にびくりとする。じゃあね、と友人と別れ、ワンピースをひるがえして彼女は姿を消した。化粧はしているのかもしれないがナチュラルで、三上が友人としてつき合ってきたタイプの女とは違う。

「三上」
「……また俺か?」

何をやらかしたのだろうか。会っていなあの似へまをやらかすはずはないし、女友達といえるような誤解される相手もいない。うまく頭が回らない三上のそばで中西が溜息をついた。

「笠井が終わったって言ってきたの、先月なんだけどね」
「先月?」
「笠井人に相談したりしないから、俺も状況わかんなかったけど」
「俺なんもしてねえんだけど」
「だからじゃないの?」
「は?」
「お前、自分がどれだけ笠井にかまってたかわかってる?」

中西の表情がいらだちに変わる。行こう、と辰巳の腕を引いて行ってしまった背中を見送り、呆然と立ち尽くした。中西の言うことが事実なら、三上はずっと笠井とつき合っていると思いこんでいただけで、どこかで出された別れの挨拶を見逃していたことになる。記憶をどこまでたどってもひっかかるものは何もなくて、何か残っていないかと携帯を見た。着信履歴を少しスクロールすれば笠井の名前が並んでいる。名前のそばにつけられた、不在着信の印も同じぐらい多かった。
体を襲った焦燥から逃げ出すように走り出す。わからない。理解したくない。会場を飛び出して見えたものは、背の伸びた笠井の後ろ姿──否、隣に立つ女のせいでそう見えるのだろうか。笑い合う横顔。誰かを見下ろす笠井を、あまり見たことがない。

「笠井……?」

呼び止める勇気さえわかなかった。ともすれば震えそうな手で笠井に電話をかける。少しずつ離れていく笠井がポケットが携帯を取り出し、開いた。その手は再び携帯をポケットに戻す。呼び出し音もむなしくて、きっと中西も味方にならない今、何ができるのかを考えた。もう、追いかけることはできない。 「三上先輩!」 「ッ!」 慌てて振り返ると後輩たちがそろっていて、懐かしい顔が試合どうでした?と聞いてくる。かわいい後輩だ。確かに試合を見ていたはずなのに何も出てこない。団体の最後に出てきた藤代が笠井の後ろ姿を見つける。

「俺も彼女ほしいなー」
「……藤代」
「なんすか?」
「あれ、笠井の彼女なのか」
「やだなー三上先輩、未練でもあるんすか?」

怒鳴りそうになるのを必死で抑え込む。状況をむりに理解させられた頭が痛みを訴えた。──笠井が離れるなんて考えたことがない。こんなことはあり得ないのだ。

 

 

*

 

 

「なんか、用っすか」

やはり笠井は背が伸びた。伸びた手足を持て余すかのように、待ち合わせ場所で壁によりかかって立っていた。いつ髪を切ったのだろう。

「俺、この後行くとこあって」
「デート?」
「そんなもん」

細身のパンツのポケットに押し込まれた携帯のストラップに目を落とす。いつかの思い出はそこに残っていない。目を合わせようとしない笠井に腹が立ったが、自分も合わせられないと気づいて舌打ちをした。

「三上先輩?」
「移動しよう」
「ねえ聞いてた?」
「いいから来いよ」
「……行かないって言ったら?」
「ここで叫びてえのか」

人通りの途切れない駅の改札を見て、笠井は渋々背を離した。駅から徒歩3分をうたった三上の大学へ向かい、笠井がついてくるのを確認する。休日の構内は寂れていて、部活で来ている学生ばかりだ。

「三上先輩」
「なあ、俺らいつ別れたの」

歩きながら切り出すと笠井が少し追いつき、こっちを見ないまま隣を歩く。どんな後ろ姿なのだろう。

「なんで、あんたがそんなこと聞いてくるんですか」
「知らねえからに決まってるだろ。なんで俺とお前が別れたって、中西から聞かなきゃなんねえんだよ」 「偉そうに。中西先輩に聞かされなきゃ気づかないままだったんですか
「笠井」
「メール送っても電話かけても返事がなくて、うっとうしいのかと思ってやめてみたらひと月もふた月も連絡来なくて、……もう怒るタイミングも、気力もなかった」
「何でだよ」
「何で!?」

笠井が足を止めて三上をにらむ。夏の日差しは笠井の髪を茶色く見せて、まぶしさに目を細めた。目をそらさない笠井は怒りに満ちている。喧嘩中の猫を思い出したが、視線がこっちへあるのだからやはり笠井は人間相手に怒っているのだ。

「何でって、あんたが聞くんですか!?」
「たかがひと月やふた月だろうが!何年一緒にいると思ってんだよ!」
「4年間、あんたのこと考えなかった日なんかないよ!」

怒りに満ちた告白は三上にも怒りを移す。昔から喧嘩は耐えなかった。笠井が怒って三上が流そうとしてまた怒り、そのうち笠井があきらめた。

「……ふた月、会ってない人のこと毎日考えてたことありますか」

落ち着いた深い声。少し声も変わったのだろうか。それとも知らなかっただけか。

「だんだん、三上先輩がどんな人かわかんなくなってくるんだよ。こんなに薄情な人だっけ、もっとまめじゃなかったっけ、って、いくら考えたって本人が捕まらないから確かめようがなくて」
「そりゃ忙しくて返事返せてなかったこともあるよ。でも今までだってそんなもんだったじゃねえか、うちに来るなりできたはずだろ」
「今までと変わらないと思ってるんですか?」

随分日に焼けた。三上も同じだ。サッカーをしている時間は高校のときよりも長いかもしれない。

「……5月、25日」
「は?」
「最後に、三上先輩んち行った日。その日、あんたに話があった。だけど先輩は自分の話ばっかりしてて、俺の知らない大学の話」
「話?」
「嫌な予感はしたんです。三上先輩何かに興味持つとそれに集中するから。そのときはまだ俺のことをまだ好きでいてくれてるのはわかったけど、それ以上に大学生活が楽しいこともわかったし」
「不満か」
「そのことはいい。俺が悲しかったのは、そんなことじゃないよ」

うつむいた笠井から落ちたのは、汗だ。笠井は泣かない。人前で泣くのは恥ずかしい、と。

「俺のこと一番わかってくれてると思ってたのに、それが俺の思い込みだったことが悲しかった」
「俺が、お前のことわかってないって?」
「どうやってあんたの目を俺に向けさせればいいのかわかんないんだよ!俺がそういうこと苦手だって知ってるくせに!」

──そうだ。笠井は誰かを誘えない。相手の時間を気にして、自分の都合をつけて調整する。いつもそうだった。三上が大学に入ってからは特に、電話やメールが来ても誘いには消極的で、……それは三上が忙しい、疲れた、楽しいと、言ったからだ。今更思い返したことに顔色を変えても意味はない。

「……2ヵ月は長いよ」

あんなに短かったのに。気だるげにぶら下がっていた手が携帯を抜き、時間を見ただけでしまわれた。腕時計もしていないことに気づく。あれをあげたのはいつだろう。

「なんか……ありますか、言い訳とか。聞くだけなら聞きますけど」
「……もうだめなのか」
「俺が悩んでる間、あんたはここで過ごしてたんですね。……俺はあんたを信用できないし、誰かを泣かすつもりも、ないよ」

笠井は泣いたのだ。泣かせたのか。蝉の声に初めて気づく。何も言わないまま笠井は踵を返し、去る後ろ姿は少し曲がっている。Tシャツの背中が汗で濡れていた。三上の額にも汗が浮き、今が夏なのだと改めて実感する。
夏が来たことも忘れていた。つき合い始めたのは暑い夜で、毎年夏がくるたびに笠井への思いが強くなるのを実感してきた。今でも言葉にできないほど、笠井のことを考えているのに──それは今更都合がよすぎるか。自覚しながらも気持ちは抑えられず、遠ざかった背中を追いかける。腕をつかんだ瞬間に振り払われた。

「笠井!」
「6月4日」
「6月?」
「俺はちゃんと言った。電話出なかったから留守電に残したよ。連絡なかったら俺は女の子とつき合うことにするって」

振り向いた笠井の目は鋭い。しかし三上を見なかった。三上の胸の辺りをじっとにらみつけている。

「それも聞いてなかったんですね。ひと月も待ったのに、ばかみたい」

──聞いていない。後で聞こうと思ったのだろう。すぐに忘れてしまう。6月4日は何をしていただろう。──悪いのは完全に、自分じゃないか。気づくのが遅かっただけだ。最後の言葉を簡潔に告げ、笠井は歩き出す。

「さよなら」

 

 

*

 

 

やっぱり終わっていたようだ、と近藤に告げるとリアクションに困っていた。へたに励まされなかったことがありがたい。いまいち実感がないせいか、自分では表面上は何も変わっていないように思えた。内面がどうなのかはわからない。気持ちの変化がわからないのは、笠井に会っていなかった時間が長かったからなのか。憂鬱にも似た気持ちを抱えたまま、もう何度目かわからない携帯に残されたメッセージを聞く。

『今日告白されました。三上先輩が連絡くれなかったら、その子とつき合います。……しつこくてごめんなさい』

連絡を寄越さないくせに別れようと言い出すでもない三上を、まだ怒っていないようだった。あまり知らない声色なのは、愛想を尽かしているからだろうか。離れていても大丈夫だなんて強気なことを言ったくせに、笠井を思い出す時間もない三上にあきれたのかもしれない。似たようなものだと思っていた中西と辰巳はお互いが案外まめなようで、連絡は1週間も途切れないらしい。三上もそうしなければいけなかったのだろう。笠井をわかっているつもりで何も見えていなかった。突然わかった事実は、もう笠井の思いは遠ざかったということ、同時に笠井が好きだと実感する。夏休みに入ったというのに予定は部活とバイトしかなかった。疲れ果てた夜は、ときどき笠井を夢に見る。都合のいい夢だ。

「……彼女でも探すかぁ」

きっと欲求不満なのだろう。だからあんな夢ばかり見るのだ。しかし誰かとつき合える気がしない。笠井は環境的にずっとそばにいて、その環境が変わったせいでお互いのすれ違いが露わになった。しばらくは、と思いもするが、気の紛れる何かがないと笠井のことばかり考えてしまいそうだった。ずっと忘れていたのに、なんて頭だろう。今、こんなに好きだと思うのに。深く溜息をつき、携帯を開いて留守電メッセージを削除した。

 

 

*

 

 

「……別れちゃった」
「……マジで?」
「……」

うつむいた笠井に藤代は何も言えずに口を閉じた。彼女とデートだ、と出ていったはずなのに、どうしてそうなるのだろう。三上とのときは知らない間に別れていた。最近三上先輩の話しないね、と何気なく聞いて、もう終わった、と返ってきたときの沈黙は、今の空気と少し似ている。思えば大会が終わってから笠井は少しおかしかったが、気の抜けたせいだと思っていた。別れたはずの三上とも普通に会話していたから、そのせいではないはずだ。

「えーと、……なんか、あった?」
「……三上先輩が」
「三上先輩?」
「……だって……俺、2ヵ月もほったらかされてたんだよ、わかるわけないじゃん、そんなの……」
「どうしたの?」

ドアの前から動かない笠井を引っ張ってベッドに座らせる。こんなにわかりやすい笠井は久しぶりだ。いつも悩み事があっても周りに心配をかけないように振る舞っている笠井を、こんな風にするのは三上だけだった。どんな理由があってあの優しい彼女と別れたのかと思えば、原因はやはり三上なのか。

「……ずっと、連絡ないって言ったじゃん」
「うん」
「他の先輩たちに彼女ができたのか、聞いてもわかんなくて、……それにしたって、あんなにメールも電話も無視されたらさ」

笠井にすれば頑張った方だ、とは思う。藤代なら向こうが嫌になって出るまでかけ続けるだろう。笠井がかけた電話は藤代から見ればほんのささやかなもので、三上が忙しかったと言うのなら忙殺されていても仕方ないかもしれない。藤代は自分の兄を見ていて、大学生の時間は実際に大学へ通わなければ理解しがたいものだと知っている。

「……だからこれが自然消滅ってやつなんだと思ってた。でも三上先輩は違うんだって。別れたなんて思ってなかったって」
「……へ?」

だからあの日、平然と試合を見に来たのか。だから笠井が久しぶりに受信したメールは、大会の成績を聞くだけのものだったのか。あのときは結局藤代が代わりに返事をした。そのことに何の疑問も感じていなかった三上は、──だから、笠井と彼女の姿を見てあんなに驚いていたのか。
ばかだなと、素直に思う。自分が彼女を作らないのは、絶対このふたりを見ていたからだ。つまらないことで喧嘩してつらい思いをしていると思ったら、いつの間にかささいなことで笑い合っている。それを少しうらやましくも思うが、客観的に見ているとどうも藤代には向かない。他人がそこまで自分に影響を与えるとは思えないのだ。それが恋なのだとしたら、藤代にはできない。恋をしたふりしかできない。

「……三上先輩、まだ俺のこと好きだったってことだよね?」

笠井が焦がれた三上の思いは、隠れていただけだった、それだけ。笠井があと一歩踏み出せば簡単にわかったことだった。臆病な友人を哀れだとは思う。何度も、家まで行けばいいと言ったのに。三上がひとり暮らしをしているのは笠井がいたからだと、笠井には教えていないが藤代は知っている。隠れて言われたのろけを本人に伝えるほど親切に世話を焼いてやるつもりはなかった。しかし自分がひと言言ってやれば、今笠井はこんなに苦しまずによかったのだろうか。

「三上先輩に会ってきたんだ、話があるって言われて。そのあと、会ったら、……もう、あの子は騙せなかった」

恋をしているふりは、藤代にもできる。だから恋を知っている笠井にも簡単にできたのだろう。自分をいつわることばかりが得意だ。

「まだ好きなの」
「……好きだよ」
「どうすんの」
「どうもしないよ。……怖い」
「何が?」
「もし今、言えば、三上先輩は俺をかまってくれると思うんだ。でも、俺はずっと怯え続ける。三上先輩がまた俺を忘れるんじゃないかって」
「……じゃあ好きにしなよ」
「……」
「俺さー、ずっと思ってたんだけど、タクは変態だよね」
「へ……」
「なんつーか、ドM、つか、女々しいし」
「……性格ひねくれててごめんね」
「俺はタクとは絶対つき合えないね、うざいもん。でも三上先輩はそれがよかったんでしょ、知らないけどさ」

泣きそうだった笠井の顔が歪んだ。泣かなければそれでいい。慰めるのはへただから、泣き場所を探していたなら他を当たってもらわないと困る。

「したいことすれば?タクがかっこ悪いのは今更なんだから、三上先輩に泣いて縋ったらいいじゃん。捨てないで〜って」
「できないよ!」
「できなかったから、三上先輩はタクのこと忘れたんだろ。じゃあ忘れさせなければいい話じゃん」
「そんな簡単に、できたら……」
「だって俺なら簡単だもん」

ぐっと体をかたくした笠井はまたうつむいた。悪いのは笠井ばかりだとは思っていない。どちらかといえば笠井の味方だ。こうなることぐらい三上なら思いつきそうなものだが、大学生活に浮かれすぎたか。お互い痛い目を見てこりただろう。これ以上このふたりのもめごとに関わりたくない。

「どうすんの」

 

 

*

 

 

またこのパターンか。最近夢に意識がある。ドアの向こうに立っていたのは笠井で、笠井から謝りにこないだろうか、だなんて虫のいいことを考えていたからに違いない。遠慮がちに立っている笠井は三上を見てうつむいた。夢の中なら都合よく時間が進むのだと知っている。そのまま笠井を引っ張り込み、ドアを閉めて抱き締める。

「……俺怒ってるんですからね!」
「黙ってろ」
「……ばか」

弱い抵抗の手を絡めとり、腕に抱いたまま唇を奪う。一方的な口づけを嫌がる笠井にかまわず何度も繰り返し、歯を立てたときの繊細な震えがリアルで、──興奮した。鮮明な夢だ。

「ば──ばか!」
「ってえ!」

突き飛ばされたかと思えばすぐさま頬に痛みが走り、慌てて笠井を見ると凶器となった手を振りながら三上をにらんでくる。その顔は真っ赤で、怒りをたたえていた。少し懐かしさを感じたがそれ以上に頬が痛くて、手のひらで押さえたまま呆然とする。痛い。──夢ではないのか。何となく足元を見ればはっきりとしていて、フローリングに落ちた自分の髪まで見えた。

「え?」
「え、えじゃないですよ!何なんですか、もう!俺は本気で怒ってるんです!そんなんじゃごまかされませんからね!」
「……夢じゃねえの?」
「ッ……ばか!」
「夢じゃねえなら何しにきたんだよ」
「……あんたに、謝らせに来たんですよ。俺と、彼女と、ふたりも泣かせたんだから、責任取って下さい」

膨れっ面が三上を見る。ちらりと見たきり顔をそらされ、うつむきがちの顔を髪が隠したが露わになった耳が赤かった。ゆっくり手を伸ばして腕を掴む。前髪の間からこっちを見た目にぞくりとした。

「……お前、こんな不細工だっけ」
「……さいってー……」
「夢ん中の誰かさん、すげーかわいかったんだけどな」
「ばかじゃないの。ずっと、夢見てれば?」
「ばか、思い切り殴りやがって」

そのまま笠井を抱き締める。できるだけ優しく腕を回し、笠井が逃げないことに安心した。深く息を吐くと抱いた体がかすかに震える。

「……ごめん」
「ばか」
「なあ、来てくれたってことは」
「勝手に自惚れてれば?」
「かわいくねえなあ……」

腰を抱いた手をそのまま服の下に滑り込ませ、唇を首筋に寄せる。わかっていたかのように笠井にそれを押し返されて顔を上げると膨れっ面が三上を睨んでいた。

「どうしてあんたはすぐそうなんですか!」
「何がだよ!前から思ってたけどお前ほんてに男かよ、性欲あんのか!?」
「そっ、それはあんたが一番よく知ってるでしょうが!なんでロクに謝りも弁解もしないですぐそうなのかって言ってんです!」
「謝っただろうが!」
「……帰ります」
「あー、ったく……めんどくせえなお前は」
「信用ないあんたが悪いんですよ」

つっぱねたままの笠井の手を取り、溜息をついて再び抱きしめる。だんだん思い出してきた。確かにこうだ。笠井は従順どころか生意気で天の邪鬼で、今までなんと都合のいい夢を見ていたことか。現実を見ても、それでも笠井がいいと実感するだけだったことに少しがっかりする。結局趣味が悪いのは自分も同じだ。

「どうしたら満足してくれるんでしょうね」
「……誠二に土下座でもしてもらいましょうか」
「勘弁しろよ……」

 

 

*

 

 

第一志望は音大だと笠井は言った。ピアノの練習に忙しそうにしている笠井の様子を聞いて、頑張れよと声をかけることしかできない。久しぶりにうちにきた笠井は気づけばソファーで眠ってしまっていて、つついた程度では起きなかったので放っておくことにした。 笠井は少しずつ、三上と離れる準備をしている。そんな気がしていた。いつでも離れることができるように心の準備をしているのだろう。これから先も共に過ごすのは難しいと、離れていた間に実感したのだ。
今度は三上が離してやる気などない。しつこいと言われようとも、笠井を追ってやろうと思っている。

「……ん」
「起きたか」
「あー……すいません」
「なんか食いに行くか?」
「まだこんな時間なんですね……暗くなるの早いなあ」

薄暗くなった外を見て笠井が立ち上がり、カーテンを閉めた。笠井の卒業まで数ヶ月、そしてまた環境が変わる。そのとき自分たちはどうなるのだろう。

「こないだまで、夏だったのになあ」

 

 

081010

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送