054

中学にあがって古典というものに初めて触れた。誠二は英語の方がましだというけど俺は結構好きだ。たまに朝練が早く終わった日に図書室に行って本を読む。中1の知識で原文は難しいからとりあえずは訳してあるものを読むけど、そのうち自分で読めるようになりたい。
前はあまり本は読まなかったけど、武蔵森で寮に入ってから、ピアノが弾けなくなったら時間を持て余すようになってしまった。休みの合間を縫って市立図書館に通う辰巳先輩ほどじゃないけど、ずいぶん読むようになったと思う。

放課後はともかく朝の図書室は時々委員が忘れていて開かないこともあるから利用者が少ない。俺は先生に言って開けてもらうほど熱心な読者じゃないから閉まっていたら帰るけど、今日は開いていた。委員はカウンターで寝てたけど。でも確かに、図書室はエアコンの入る貴重な場所で、旧館にあるとは言え比較的利用があるから取り付けられたのだろう。
今日は天気も良くて、日の入る窓側の席は暖かそうだ。読みかけの本を取っていつもの席、窓側エアコン下の席に座る。今日は俺以外に利用者が見当たらない。そもそも図書室自体、少し不便な場所にあるから使う人は少なくて、一部の熱心な読書家の意見だとか読書推進の風潮だとかで、朝の時間はなくならないらしい。

借りても期限までに読める気がしないので図書室で少しずつ読んでるけど、いつ来てもあるからしおりを挟んで読んでいる。落窪物語。先生に聞いたときにストーリーがわかった方が読みやすいだろうとおすすめされて、ようするにシンデレラストーリーだ、と簡単すぎる説明をされた。ああ、それにしても今日は暖かい。日差しを受けて思わず目を閉じる。暖かいだけでどこか睡魔を誘った。

「おい」
「……はい?」

肩を叩かれて顔を上げると、逆光に誰か立っている。目を細めて確認すると、同じサッカー部、2年の三上先輩だ。マフラーを巻いた姿で、いつものような少し斜に構えたような表情をしている。この人は苦手だ。ほとんど話もしたことがない。

「お前ずっと寝てたのか?」
「……はい?」

俺の返事に三上先輩は嫌味がましく深々と溜息をついた。ズボンのポケットに手を入れたまま前の机に腰掛ける。いちいち腹の立つ人だ。なんですか、聞くと視線が少しだけこっちを向いた。

「時間見てみろ」
「時間?」

壁の時計に目をやり、一瞬止まっているのかと思う。しかし秒針は動いているし、この間来たときも正確な時間を示していた。今日もその通りだとするならば、――授業は始まっている。思わず立ち上がると三上先輩は緩慢に俺を見上げた。こいつ、と思わず睨みつけたが感情の読めない目が俺を見つめ返す。不真面目な人だから俺はこの人が好きじゃない。サボりにつき合わされてはたまらないから顔を背けてドアに向かう。閉まったドアに手をかけて、ガチリ。……開かない。焦ってドアを揺らすともうやったー、と姿は見えない三上先輩の気の抜けた声が飛んでくる。カウンターを見ても委員の姿はない。ぞくっと鳥肌が立って、寒いすきま風の入ってくるドアから離れた。
……これは、どういうことだろう。混乱したまま戻ると三上先輩の背中がお帰り、と喋る。……どういうことだ?とにかく落ち着かなければと思うのに、頭が真っ白になっている。俺が忘れて置きっぱなしだった落窪物語をぱらぱらとめくりながら、たまにあんだよ、と平然と三上先輩が言った。たまにとは、何がだろう。動けない俺を振り返った三上先輩はつまらなさそうだ。俺がうざいのかもしれない。

「結構本棚で死角できるから、たまに確認しないで鍵かけてくんだよな」
「え……それって」
「閉じこめられたってこと」
「えっ!」
「まあ昼休みには開くから。お前こんなん読んでんの?」
「そっ……それはどうでもいいんですよ!閉じこめられたって!」
「周りに使う教室なし、窓から見えるのは中庭のみ、転落防止で窓は半分しか開かない、よって開くまで待つしかない」
「そんな……」
「あ、お前携帯持ってねえ?」
「も、持ってきてません」
「だよなあ。俺も鞄に忘れてきたしな〜」
「……なんか、慣れてません?」
「たまにな。まっ、わざとも混ざってるけど。大丈夫だって、開かないわけじゃねえし。もしかしたらお前真面目だし探してもらえるかもな」
「……じゃあそれは、……開けてもらえるまで、ここに?」
「そうだって。諦めろよ」
「嘘……」

机に手をついてしゃがみ込む。自慢じゃないが授業をサボったことなんてない。荷物はあるのに俺はいないなんて、今までしたことない。昼休みまで、こんなところで、しかも三上先輩とふたりきり?つーか俺はいつの間に寝たんだろう。まだ1行も読んでなかったのに。
どうしたらいいのか、いや何もできないんだけど、ぐるぐると思考を巡らせているとしゃがみこんだ尻からぞくぞくっと寒気が走って立ち上がるー少ししびれた足で、とりあえずいつもの席に座った。暖かい椅子に腰を下ろすのを三上先輩は黙って見ていて、無言で本を差し出してくる。よりにもよって落窪物語だなんて、冗談だろ?これならひとりで閉じこめられた方がよっぽどましだ。三上先輩は動く気配を見せず、机に座ったまま足をぶらぶらさせて窓の外を見ている。あと何時間、この空気の中にいればいいんだ?……ダメだ、混乱しすぎて計算ができない。本を手にしたまま硬直する。ありえない。

「……お前古典好きなの?」
「え……あ、まあ……」
「ふーん。それどんな話?」
「えっと……シンデレラストーリーってやつです、継母にいじめられて物置に閉じこめられてるお姫様を、男の人が助け出す、みたいな……」
「閉じこめられてる、ねえ。ひとりで?」
「そうです」
「すげー継母だな」
「そう、ですね……」

……会話終了。もしかしたら気を使って話しかけてくれたのかもしれないけど俺の返事は常に三点リーダー混じりのしどろもどろで、うっとうしくなったのだろう。いっそ別の場所に行ってくれればいいのに。俺が移動してどこ行くのか聞かれても嫌だしな、避けたみたいだし。避けたいんだけど。

フェンスの向こうからは人気の高い三上先輩は確かにサッカーもうまい。だけど飛び抜けてってわけじゃなくて、今もレギュラーだけど控えとの境のような人だ。3年が引退したら誠二が間違いなくレギュラーに入るだろうから、もしかしたら誠二の方がうまいのかもしれない。ポジションも違うからわかんないけど。いつも真剣なのかそうじゃないのかわからない調子で喋って、さっき自分で言っていたように時々授業をサボったりしているようだ。部活をサボったことはないと思うけど、別に注目してないからよくわからない。中西先輩とは違う意味で関わりたくなかった人なのに、どうしてこんなことになるんだろう。神様俺が何か
しましたか?ふるっと体が震えて、三上先輩がこっちを向く。寒い。

「ちなみにエアコン切れるから」
「……え?」
「職員室管理だろ、ここ」
「うっそ……」

呆然として窓の外を見た。天気はこんなにいいのに、日差しは暖かいのに、今は冬なのだ。ブレザーの下にぞくぞくと鳥肌が立つ。……昼休みまで、だって?聞いたとたんに寒くなってくる。ない、ないない。ありえない!何が嫌いって俺は寒いのが一番嫌いだ。今年は暖かいねとみんなが言うけどそんなことはない、冬は冬でなんだろうと寒い。まさかこんなことになるとは思いもしてないからコートもマフラーもなくて、あるのはポケットにカイロがひとつ。
俺が動揺したのがわかったのか、三上先輩が溜息をつく。同じ寮なのだから、俺の寒がりを知っているのかもしれない。しゃあねえな、と頼んでもいないのにマフラーが投げられる。いりませんと突っ返そうかと思ったけどこれからの数時間のことを考えてやめた。思いがけず人肌のこのマフラーが不快じゃない。顔を埋めてお礼を言うと、バカにしたように笑われた。

「ま、静かに本でも読んでろよ。集中してりゃすぐだ」
「……経験者のアドバイスとしてありがたく受け取っておきます」

ようやく机から降りた三上先輩は正面に座り、腕を枕に顔を伏せた。どう考えても寝る体勢で、この人が閉じこめられたのはわざとなんだろうと思う。少なくとも今日は。とりあえず焦ったところでどうしようもないことはわかった。先生が俺のことを信じて探してくれると願おう。腹をくくってカイロで指先を暖めつつ本を開いた。
閉じこめられた落窪はどんな気持ちだったのだろう。突然すべてから引き離されて閉じ込められるなんて、理不尽な暴力と同じだ。ひとりっきりで何を思うのだろう。……そういえば、俺は三上先輩が一緒だから今落ち着いていられるんだ。本から顔を上げるとつむじが目に入る。かすかに上下する背中。マフラーは暖かい。もしこの人がいなかったら、俺は慌てふためき泣き出しているかもしれない。わずかしか開かない窓から、助けてと叫んでみたりするのだろうか。……三上先輩も、したことがあるのだろうか。初めて閉じこめられたときがわざとか不可抗力なのか知らないけど。

「なあ」
「は、はい?」
「お前ポジションは?」
「DFです」
「あー、そうだそうだ」

起きてたのか。身動きを取らずに三上先輩は続ける。辰巳と同じだな。そう、辰巳先輩は俺の理想だ。よけいな文句は言わず、かと言って黙って従うわけでもなく、寡黙に任された仕事をこなす。俺から見れば羨ましいばかりの体格で、読書が趣味だという辰巳先輩に聞いて俺は初めて朝も図書室が開いてると知ったんだ。

「お前はどうなんだよ、レギュラー」
「俺ですか?」
「そう。藤代ほぼ確定じゃん」
「俺なんか、多分なれても3年になってからじゃないですかね。そんなにうまいわけでもないし」
「じゃあなんでサッカー部入ったんだよ」
「……そりゃ、好きですから」
「地元のサッカー部で適当にやってりゃよかっただろ」
「……なんで、三上先輩にそんなこと言われなきゃならないんですか」

むかつく!やっぱりこいつむかつく!一瞬見直しかけたけど気の迷いだ、寒いせいで頭がおかしくなったんだ。喧嘩腰の口調に思わず同じ調子で返して、目をつけられるかな、とすぐに後悔した。気に入らない奴は徹底的、と言う噂があったりなかったり。三上先輩がゆっくり頭を上げる。前髪を直す手の下で、何を考えてるかわからない目が俺を見た。

「サッカーで上に行きたくて武蔵森に来たんじゃねえのかよ」
「それはそうですけど!……来てみれば、理想と違うことぐらい、あるじゃないですか」

そうだ。俺はずっとサッカーがうまいと思ってた。調子に乗ってプロ目指しちゃおうかな、と思ってしまうぐらいには。少なくとも、自分ではなれるだろうと思っていた。入学してすぐに現実を見たけど。でもわざわざ三上先輩に言うことじゃない。顔をそらすと溜息をつかれた。どうして親しくもない先輩と口論しなきゃいけないんだろう。別に責めてねえよ、いらついたような声に腹が立つ。

「……そうだよな。今お前楽しそうだし」
「え?」
「藤代と一緒にへらへら笑ってグランド走ってよ」
「……三上先輩は、サッカー、楽しくないって言うんですか」
「さあ。……いつから楽しくなくなったんだろうな」

窓の外に視線を流した三上先輩の横顔に心臓がざわめく。何か悪いことを言っただろうか。元々離れていた距離が更にぐっと遠ざかった気がして、なぜだか焦る。一緒だ。俺も三上先輩と関わりたくない部分があるように、三上先輩にだってそんなこともあるだろう。イケナイところに触れたのかもしれない。

「楽しけりゃいいって思えれば楽なのに、どうして上に行きたいんだろうな」

ぽつりと呟いた言葉はひどく寂しげで、胸の深いところに忍び込んでくる。……俺が抱えていたもやもやしたものの答えが、今三上先輩の口から出た。そうだ。諦めたと言い聞かせても言い聞かせても、悔しさがじわりと胸に浮いてくる。それを隠すのがうまくなって、自分でも気づかなくなった。楽しかっただけのサッカーの時間は小学校で終わった。
切磋琢磨と言えば聞こえはいいけど、他人と比べながら、監督を意識しながら、そんなサッカーから俺は逃げた。代償は夢を失うこと。俺は変なところで器用なのだろう。今の状態を甘んじて受け入れて、気持ちを隠しきった。三上先輩はそれができないのか、……俺より気持ちが強いのか。だけど同じ思いを抱えているのだと思うと憎めなくなる。

「三上先輩はサッカーが好きなんですよ」
「……は?」
「あ、いや……だから、好きだから、諦められないんでしょう?」
「……お前くさい」
「……すいません」

いちいち腹の立つ人だ。カチンとさせることを忘れない。睨むつもりで三上先輩を見ると笑っていて硬直する。苦笑と言った感じで、少し困ったような顔だ。しかめっ面やにやついた顔のイメージがあったあの三上先輩が、こんな顔をするなんて。どう反応したらいいのか迷っているとチャイムが耳に届く。1時間目が終わったらしい。確かにチャイムは聞こえたのに解放のざわめきは聞こえなくて、窓から叫んでも誰にも気づかれないだろうとわかった。

「お前1時間目何だった?」
「数学、です」
「先生誰?」
「佐川先生です」
「あー、あの先生教えるのうまいよな」
「そうなんですか?」
「一番うまいかも。田中知ってる?知らねえか、2年の先生だもんな。あいつの教え方はひどい」
「……俺佐川先生の説明でもよくわかんないんですけど」
「センスないんだろ」
「……そうかもしれませんね」

ダメだむかつく。あんまり話を続けるといらいらしそうだ。よく知らないけど頭はいい方らしい。サッカーもそこそこできて頭もよくて、フェンスの向こうからは人気が高いらしいけど、部活の中ではいまいちだ。うるさいし怖いし。なんでモテるのかわからない。顔はいいのかなと思うけど。まだ1時間目が終わったところ、ヤバい、既に疲れてきた気がする。何もしてないのに体力を消耗した。そして寒さが誤魔化せなくなってきた。カイロを握りしめて体を小さくしていると、三上先輩の呆れた視線が飛んでくる。

「そんな寒いか?今日あったかいだろ」
「さ……寒いもんは寒いんです!指冷たくて」
「ふーん」

さっと立ち上がった三上先輩が近寄って、身構えると黙って手を取られた。暖かい手が指先を包む。冷たっ、呟かれた声を聞きながら、何をされているのか理解しようと頭を動かす。三上先輩が、俺の手を取って。

「……えーっ!」
「なんだようるせえな、あっためてやってんのに」
「ええ〜……」
「言っとくがお前が期待してるような趣味はねえぞ」
「きっ……期待なんか!」
「まあお前ならその気になってもおかしくねえけど」
「ヒッ!」

体を引いたけど椅子の背に阻まれた上三上先輩も手を離さずに、面白そうに冗談だと笑い飛ばした。冗談で済むか、気色悪い。もう少し待てよ、そんな声が思いがけず優しくて、そしてそれ以上にこの手のぬくもりが俺を引き留めた。冷えきっていた指先がゆっくりあたたまるのがわかる。

「……なんでそんなにあったかいんですか」
「手が冷たいと心があったかいって言うけどな」
「あーなるほど、じゃあ三上先輩は心が冷たい……っ!」
「言ったな?」
「い、言わせたんじゃないですか!」

けらけら笑って三上先輩が手を離す。かすかにぞくっとした喪失感に思わず手を握った。せっかく戻った体温を逃がさないようにポケットに押し込む。お礼を言うタイミングがない。

「お前そんなんじゃ、部活大変だろ」
「……だから無理やり誠二にくっついて走るんです」
「ああ、そりゃいい」

……絶対バカにしてる。くつくつ笑いながら三上先輩はまた机に座った。この人とこんなに長い時間一緒にいたことがない。どこが面白いのかわからないけど時々思い出したように笑いながら、窓の外を見ている。何を考えてるんだろう。こんな風に笑っているところを見るのは初めてかもしれない。同じ場所で生活しているんだから見たことはあるんだろうけど、意識なんてしないから。寮と言う場所は特殊だ。一緒にいるようでそうじゃないし、プライバシーは守られてるのか守られてないのかわからない。かすかに鼻歌を歌っているようだけど何の曲かまでは聞き取れない。この人はどんな歌が好きなのか、どんな本を読むのか、同じ屋根の下に住んでいたって俺はひとつも知らなかった。三上先輩だって俺のことは知らないだろう。お互いわかるのはサッカーの実力ぐらいなもので、今こうしてふたりでいるのが不思議だった。そういえばどうして俺はこの人が苦手だったんだろう。

「……暇だな」
「……まあ、そうですね」
「お前が一緒ならウノ持ってくりゃよかった」
「そんな予知ができるなら閉じ込められる前に教えて下さい」
「そりゃそうだな」

暇つぶしには事欠かないはずだが、三上先輩には本を読むという選択肢がないらしい。なんで図書室という場所にいるんだろう。聞いてみればいいだけなのにたった一言が出てこない。誠二と違って先輩と離すことになれていないから、いや、先輩に限らないけど。いつも言いたいことは口にできない。いい加減この性格もどうにかしたいと思うのに。

「……あ」
「何ですか?」
「今日何日?」
「えーと……22日、です」
「あー、やっちまった」
「どうしたんですか?」
「俺、今日誕生日」
「……えっ」
「うわーシクった、色々たかれる日だったのに……」
「えー……おめでとうございます」
「ありがとうございます」

頭を抱えてわざとらしく答える三上先輩が妙にかわいく思える。なんだか誕生日と言うのを気にしているのが変な感じだ。俺は三上先輩に妙なイメージを抱いているらしい。

「誕生日に男とふたりきりってサイテー……」
「……すいませんねえ」
「お前でよかった、ゴツいのだったら耐えらんねえ」
「どーせ貧相な体してますよ」

クソ、俺だってそのうち成長期がやってきてたくましく……なる、はずだ。一瞬父親を思い出してしまった。いやあんまり似てないし、きっと大丈夫だ。うん。

「誰か万年筆くれねえかな」
「……なんか万年筆っておじさんのイメージがあるんですけど」
「女が寄越すもんってなんかめんどくさくねえ?あ、お前彼女いねえの?」
「いませんよ。どこで出会うんすか」
「いるじゃん、『愛の隔壁』のむこっかわにいっぱい」
「隔壁は隔壁です」
「ふーん。まあお前不器用そうだしな」
「ほっといて下さい。いいんですよ、いりませんから!」
「好きな奴も?」
「だからどこで出会うんですか」
「松葉寮とか」
「……ありえない!」
「ありえねえよな〜。高等部は多いらしいけど」
「げっ……」

共学とは名前だけの武蔵森、男子校ではそういうこともあると聞くけど見たことはない。都市伝説みたいなものだと思ってた。愛の隔壁にはなぜか男の名前がふたつ並んだ南京錠がかかってるらしいけど、あれは女子のいたずららしい。詳しく知らないけど乙女の夢だとかなんとか、あんな気持ちの悪いものがなんで夢なのか知らないけど。

「寒かったら抱きしめてやんぜ」
「気持ち悪いので結構です」
「つれねえの。……なあ、お前名前なんだっけ」
「……笠井です」
「ああ、タケミちゃんか!」
「タ・ク・ミ・です!」

そうだそうだ、と三上先輩は笑う。ちくしょう、何が楽しい。幼稚園から今まで、そしてこれからも、俺は自分の名前を訂正し続ける人生に違いない。おまけに中学に入ってなぜだかちゃんづけで呼ばれるようになってしまった。みって音がいけないんだろうけど、タクミだってタケミだって女の名前じゃないと思うのに。笑い続けている三上先輩にさすがに腹が立って本で背中を叩く。いてえよとあまり痛くなさそうに返された。

「俺も似たようなもんだって、リョウとかな」
「……三上先輩なんて名前でしたっけ」
「アキラ。こういうの」

机に指で書くのを視線で追う。亮、だ。聞けば思い出した。……前にフェンスの向こうから、亮せんぱーい!なんて、大量のハートを飛ばしながら叫んだ子がいたっけ。あのときはちょっと面白かったな、桐原監督が驚いたぐらいだし。そのことを持ち出すと渋い顔をした。本人も歓迎できなかったらしい。

そこからだらだら話をした。今まで避けていたのが不思議なほど自然に話せるのは、俺が偏見を持っていたからだろうか。確かに不真面目ではあるけどサッカーには真剣で、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、とはっきり言う。話がうまい人だ。途中で何度か指先を暖めてもらった。だんだん授業をサボっているという状態を忘れていた。楽しんでいるというのも変だけど、寒いのさえ除けば久しぶりに気を抜いた気がする。俺は疲れていたのかもしれない。
派手にくしゃみをしたら三上先輩が驚いて机の上で跳ねた。鼻をすすって溜息をつく。寒い。気温を通り越した嫌な寒さで、風邪をひく予感がする。息が白い、ぼやくと三上先輩が困った顔をした。寒いと思うらしいが、それほどではないらしい。

「……あ、待てよ……」

机を降りた三上先輩がカウンターへ向かう。窓から差していた日差しもすっかり移動してしまっていたのでついて行くと、カウンターの隣にあるドアをガチャガチャやっている。よいしょ、と似合わないかけ声と共にそのドアが開いた。

「そこ何ですか?」
「書庫」

三上先輩は中に消える。俺は何となく着いていくのをためらって、どうしようかとうろうろしていると何かを持って出てきた。腕に下げられたそれは、

「誉めろ」
「ハロゲンヒーター……?」
「前に使ってんの見たんだよ」
「三上先輩……!」
「崇めろ!」

やばい、神様に見える。思わず両手を合わせててしまった。三上先輩がカウンターを覗き込むと新刊図書の入ったダンボールでコンセントが塞がれている。この広い図書室だから他の場所にもあるだろうけど、周りはぐるりと本棚に囲まれていて、さっぱり見当がつかない。ハロゲンヒーターを片手にコンセントを引きずって、三上先輩は頭を掻く。諦めたように溜息をつき、黙って移動していくので着いていった。カウンターから一番遠い部屋の隅っこ、狭い本棚の間を抜けて入っていくと、古い本の匂いが増す。茶色く変色した本が並ぶ本棚を眺めながら歩いていると三上先輩にぶつかった。
ハロゲンヒーターを置いて、しゃがみこんで部屋の角にコンセントを持った手を伸ばす。黙ったままの三上先輩が電源を入れると金網の向こうからオレンジ色の暖かい光が俺を誘い、思わず手のひらを向ける。本棚の隙間から新聞紙を取り出して無造作にヒーターの前に投げ、俺を指さしてその指を新聞に向けた。sit down、やたらきれいな発音が俺に指示を出す。

「……用意いいんすね」
「……いつもはここにいるんだよ」

新聞をもうひと束取り出して、俺をハロゲンヒーターで挟んだところに三上先輩は座った。隣に座って暖かい光に感謝しながら何気なく上を見ると、そんなに高くない棚のはずなのに狭いせいか圧迫感がある。今にも崩れてきそうな本に少しビビった。違う世界みたいでちょっと怖い。古い本棚にハロゲンヒーターがミスマッチ。隣では三上先輩も後ろの本棚に背中を預けて天井を見ていた。知らない横顔が少し気になる。今日は色んな表情を見た。いつも、三上先輩はここで何を考えてるんだろう。何もすることがないこの空間、落窪のように出ることや外との連絡について考える必要はなくて、だとしたら、好きな人のことでも思うのだろうか。広いと思っていた図書室なのに、ここにいるとなんだか狭い。

「……知ってるか?来年から新館に図書室の移動計画始まるんだって」
「え?……新館って、確か設計ミスで本があんまり入らないんじゃ」
「春休みから改装始めるんだってよ。一応進学校だし、図書室はしっかり作りてえんだろ。こっちは完全に書庫になるらしいぜ」
「そうなんですか。便利になりますね」
「……まあな」
「嫌なんですか?」
「……新しい場所は落ち着かねえ。生活感っつーか、人が過ごした場所じゃないと気持ち悪くてよ、うち田舎だからかもな」
「田舎なんですか」
「田舎なんだよ。……土くせぇ田舎だよ」

俺はホームシックになったことはない。入学したばっかりは自分で洗濯や掃除やするのが面倒で帰りたかったこともあるけど、何だかんだで家は東京だから時々帰る。そういえば三上先輩はどこか知らないけど遠いって聞いたっけ。聞いてみようと思ったのに本棚を見上げる横顔が真剣で、俺は逆にうつむいて指を組んだ。指先は暖まっている。ハロゲンヒーターが埃を燃やすじりじりと言う音が耳についた。三上先輩も俺も黙り込んで、お腹が空いたとぼんやり思う。

「……もう昼休みなってんじゃねえか?」
「あ、そうですね」

ハロゲンヒーターの登場で忘れていた。どうせならもっと早く思い出してくれればよかったのに。時計見てくる、立ち上がった三上先輩が離れていって、俺はまた本棚を見上げた。変な時間だったな、としみじみ思う。じっくり話してみれば誰だって悪い人ではないのかもしれない。まあ、嫌な人とじっくり話すってのがそもそも嫌だから、今日のは特殊なんだろうけど。でも三上先輩を好きに慣れたと思う。もちろん普通の意味で。

「諦めろ」

絨毯に足音を吸われて三上先輩に気づかなくて、声に驚く。肩から落ちたマフラーを無造作にあげた、その手の先にある三上先輩の顔は不機嫌だった。間違いなく不機嫌だ。眉間にしわを寄せて口元は結ばれている。諦めろ、って言った?意味を理解しかねていると三上先輩は乱暴に隣に腰を下ろす。もたれた本棚がぎしりと音をさせた気がして焦った。

「あ……諦めろって?」
「昼休み、開かねえかも」
「……えっ!な、何で……」
「もう昼休み入ってた。カウンターで当番表見たら3年だった。あいつ適当なやつだし間違いなく昼休み開けること忘れてる」
「……それは……もう1時間……?」
「よかったな、6時間の日じゃなくて」
「……うっそ……」

俺のまとめは一体。ていうかほんとにお腹が空いた。思った矢先に腹の虫が鳴く。昼休みには出れると思っていたからショックがでかい。果たして放課後に開けてくれるんだろうかとさえ思ってしまう。うちのめされている俺の頭を三上先輩は黙って2、3度軽く叩いた。うかつにも泣きそうになる。今まではわからなかった「三上先輩はかっこいい派」の気持ちがちょっとわかりかけた。なぜだかちょっと胸がドキドキしてるし。とりあえず寒くないのと、三上先輩がいるのが救いだ。ハロゲンヒーターだって三上先輩が見つけてきたわけだし。校内遭難レベルが回避されてるのは三上先輩のお陰だ。やばいどんどんかっこよく思えてきてしまった。物音に顔を上げると三上先輩が本を開いている。

「何見てるんですか……?」
「俺の誕生花、アネモネだって。花言葉知ってる?」
「知りません」
「はかない恋、だってよ」
「……似合わないっすね」
「お前は?いつ?」
「11月3日です」
「それ何の日だっけ」
「文化の日」
「ああ、それだ。誕生花は黄色いキク、花言葉はわずかな愛。どっちもどっちじゃねえか」
「誕生花って何なんでしょうね」
「さあ……」
「つか俺前に聞いたときこんな花じゃなかった気がすんだけど。適当だな」
「はかない恋とわずかな愛、ですか。どうせならもうちょっといい言葉にしてほしいですよね」

笑ってから気づいた。励まされたのかわかんないけど気分は晴れている。あと1時間ぐらい、今更だ。三上先輩も一緒だし。

「誕生日なのに不運ですね」
「当番確認すりゃよかったぜ」
「……やっぱり三上先輩はわざとなんですね」
「どっちでもいいかな〜、みたいな?図書委員が確認すりゃいいだけだろ」
「それはそうですけど」
「俺来年図書委員やろっかな。来年半分ぐらいはまだこっちらしいから」
「本好きなんですか?」
「別に。読むのは苦痛じゃないけど辰巳みたいに読む気にはならねえな。面白いとは思うけど」
「ふうん、最近なんか読みました?」
「……ハリーポッター?」
「……似合わない」
「途中でやめたけどな。お前は?ああ、さっきの古典か」
「結構面白いですよ」
「変なやつ」
「……あんまり三上先輩に言われたくないです」
「……ハロゲンヒーター没収!」
「ごめんなさい!」

反射的にヒーターを背中に隠すと三上先輩は膝を叩いて笑った。この野郎!人が見直したかと思えばこうだ。もう嫌いだとは思わないけどなんか悔しい。笑い声に混ざって物音がして、ぴたりと三上先輩が止まる。俺も思わず背筋を伸ばし、しばらく三上先輩と顔を合わせていた。

「笠井いるかー?」

内海先生の声だ。はっとして立ち上がり、慌てて出ていくと、やっぱりドアが開いている。担任はいた!と声を上げた。三上先輩が後からハロゲンヒーターを引っ張って出てくる。

「笠井探したぞ!何してんだ!」
「いやあの、閉じこめられて……」

思わず三上先輩を見ると溜息をつかれた。今日何度目だろう。三上先輩が一緒だと気づいて内海先生が肩を落とす。

「あのなー先生、俺もこいつも完全に不可抗力だからな。確認しないで鍵閉めるバカが悪いんだぜ」
「わかったわかった……朝から笠井がいなくて探してたんだ。三上になんかされなかったか?」
「何それ。先生腹減ったから行っていい?」
「いや待て、その前に職員室だ。報告しないと」
「げっ……」

なんか大袈裟なことになってそうだ。行くぞと促されて出た廊下は寒い。ハロゲンヒーターが教室にもあればいいのに、もちろんひとり1台。朝からの長かった時間はあっさりと終了し、俺は落窪の気持ちを味わう間もなかった。それは始めから、三上先輩が閉鎖感を打ち破っていたからかもしれない。閉じこめられた密室から助け出してくれたのは、……あれ?内海先生と並んで前を歩く三上先輩の背中を見ていると変な気分になってくる。今の言葉だと、まるっ三上先輩が白髪の王子様か何かのようだ。自分の思考にどきり、と動機がする。
職員室で学年主任に今後気をつけるように、と言われてすいませんと謝ったら、隣の三上先輩に頭を叩かれた。なんでだかその拍子にくしゃみが出て、腹話術の人形をなぜか思い出す。

「注意されるのはこいつじゃなくて図書委員です」
「……それはもちろん」
「へっくし!」

何か言いかけた先生の話を遮ってしまった。今のくしゃみでマフラーを借りっぱなしだったのに気づく。返し忘れないように首から外すとすっと寒くなった。幽霊にでも出会った気分だ。職員室はあったかいのに、思っていると突然三上先輩の手が伸びてくる。ぎょっとして一歩引いたけど、暖かい手が額に触れた。

「お前大丈夫か?」
「え、熱なんかないですよ?」
「今はないみたいだけどよ……」

やり取りで先生たちが図書室の寒さに気づいたらしい。焦った空気が流れ、保健室に、と促された。そんなことを言われると風邪をひいたような気分になってしまうからやめてほしい。三上先輩だけ残されて、担任付き添いで保健室に行ったら平熱より1度高かった。経験的に、夜にはもう1度上がるだろう。先生がやたらとうろたえてベッドに押しつけられたかと思えば出ていった。何か色々あるんだろう、大人の事情とか。大人しく布団には潜り込むが眠気はない。

……さっき、俺は三上先輩をどう思ったんだろう。あのどきり、は風邪のせいだとしても。何をどう考えたらいいのかわからない。頭に浮かぶのは、はかない恋だとか、わずかな愛だとか。もしかしたら最悪の事態なのではないだろうか。あのどきり、が、アレだとすると、俺の、初めてになってしまう。初恋、なんて冗談にしても笑えない。
とにかくわかることは、二度とあんな空間に閉じこめられたくないと言うことだった。枕元に置かれた三上先輩のマフラーを見て、すぐに頭まで布団を引っ張った。ありえない。絶対にありえない。思うのに、冷たくなった指先が温もりを覚えていた。

 

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