反物を持った女に、よくお似合いですと声をかける。
言われた方の女も、店の主人より若い男に言われた方がその気になるのだろう。結局反物を買っていった。
女を見送る彼の後姿を、一生眺めるのだろうかと思いながら庭先の掃除をする。


墨 雪


大きなあくびを一つして、三上は縁側に座り込んだ。女中に作らせた握り飯にかぶりつく。きちんと食事をする のが面倒で、これが昼食だ。
かつて豪遊していた頃と比べるにつけても、あの頃の時間が惜しい。本来商才はあったのだから呉服屋の仕事な ど三上にはたやすかった。ひとつ仕事を片付けるたびに得る満足感、そのたびに仕事が楽しくなってくる。
しかし…三上は再びあくびをひとつ。仕事は楽しいがこれが困る。 真っ当に働き始めてから三上の朝が早くなった。今までは夜は眠らず朝から寝ていたのだから相当差がある生活をしている。しかしそうは言っても三上は若旦那、そんなに早く起きなくともいいはずである。
────であるから、正確には働き始めてから、ではなかった。小さな悪魔を拾ってから、である。

「すみ!すみゆき!」
「…またやったか」

三上は溜息を吐き、ゆっくり握り飯を食べきった。側の湯呑みを持ち上げて、茶をすすりながら声の方へ歩く。
庭から赤ん坊の鳴き声のような声が聞こえてくる。その声は庭の松からで、その根本で丁稚がひとり騒いでいた 。

「もう!いい加減自分で降りれるようになってよ!」
「またか」
「あ、若旦那。墨雪、またあんな高くに」
「おぅおぅ、派手に鳴いて」

三上の見上げた視線の先、松の梢に子猫が一匹。例の小さな悪魔があれだ。もう何度目になるのか三上は忘れたが、あれは何故か降りれない癖に木に登りたがる。成猫にもなれば心配もないが、まだ子猫では家の者も降ろさ なくては不安だ。

「竹巳、持ってろ」
「はい?」

庭に降りて湯呑みを丁稚に渡す。彼に考える時間を与えずに、三上は木に登り始めた。松の葉が着物を抜けて肌 を刺すのに顔をしかめる。

「わ────若旦那ッ!危険です!」
「大丈夫だって。…ほら、墨」

全身の毛を逆立てた猫を無理矢理捕まえ、胸に抱いてすがりつかせる。松葉より痛い爪が引っかかったのを感じ てから三上は木を降りた。心配症の丁稚が顔を青くしている。

「ほらよ」
「…す…墨雪もですけどッ、若旦那が怪我なさったらどうするんですか!おまけに着物も…」
「怪我でもしたら寝込んで別嬪に介抱してもらうさ」
「もう!」

子猫を預け、猫にやるような調子で頭を撫でてやると口が塞がった。否、何か言おうとはしているが言葉が出ないらしい。湯呑みを取り返して三上は店の方へ向かう。

(…アブネ〜…抱きしめるかと思った…)

自分の手を見下ろし、溜息をひとつ。

(情けねぇなぁ、三上亮ともあろう男が…)

着物についた松葉を払ってまた溜息。
────三上が毎夜の郭遊びをやめたのは、全てさっきの丁稚のせいだ。名を竹巳、今はすっかり落ちたが昔は 立派であった武家の息子で、今は三上屋で丁稚をしているが勿体ないほどよく出来る奴だ。
そして何故竹巳に因るか。それは単純明解、三上が竹巳に思いがあるからである。

(そりゃ、当然だけど、進展もしねぇ…)

先ほどの猫だって、元は竹巳の拾ったものだ。使用人であるから遠慮するのを、三上が飼うからと言って落ち着けた。そうでもなければ呉服屋で猫など飼わない。
拾ってきた時こそ薄汚れていたが、一度洗えば見事な黒と白のまだらぶちの猫だ。詩的な三上の父が墨滲む雪、で墨雪と名付けた。尤も、墨やら雪やらと呼ばれるので、名前だけでは黒猫か白猫かわからない。

「若旦那、お客様です」
「おぅ」

呼びにきたらしい番頭に湯呑みを押しつけ、三上は店へ急ぐ。老舗と言ってもいいだろう、そこそこにいい品を 揃えている三上屋には見栄っぱりの商人なども時折現れる。三上にしてみれば反物一反ほどの価値もない輩だ。
しかし気に食わないからと言ってふっかけたりはしない。お客様に合うものい選ぶのが第一だ。

「どうも、お待たせしまし…なんだ中西か」
「どーも。その態度はないんじゃない、若旦那」
「お前に媚びてどうする。今日は?」
「お使い。辰巳が女連れてこようって言ってんだけど」
「あぁん?なんでも揃えちゃいるがそこまで上等なモンは置いてねぇぞ」
「違うよ。梅ちゃん」
「あ…」
「会いたいんだって」
「…竹巳に聞いてみる」
「うん、宜しく」

中西は何となく三上と付き合いのある男で、いかがわしい商売をしているので仕事上の縁はない。
間接的に言う ならば、三上の通いつめた店の店主、辰巳の男だ。着古した着流し一枚でどこにでも現れる。

「ンでお前は何もいいのか?着たきり雀」
「うふっ、アタシ基本的に辰巳に養って貰ってるからね」
「文無しか」
「飲みに行く金ぐらいならあるんだけど、今夜どう?」
「行く」
「…即決?溜まってんのねぇ色々」
「うっせーよ」
「おもしれー屋台みっけたの、鳥」
「おー、夕には抜ける」
「いいの?竹巳チャン泣かさないようにね」
「う…大丈夫だろ」
「ふぅん。ほんじゃ、夕方あっこの太鼓橋で待ってるから。アタシがかどわかされる前に来てね?」
「きもいからやめろっつーの。おら、何も買わねぇ奴は帰れ」
「ハイハイ。んじゃね、梅ちゃんのこと宜しく」
「…おぅ」

中西を追い出して三上は一息ついた。店の方も今日は空いているらしい。三上がいなくとも、何やら上客相手に 張り切っている父親だけで事足りるだろう。
しかも木に登ったりしたので客の前に出れる格好でないことに今気付く。今日はもう終わりと自分で決めて、三上はさっさと奥に引っ込んだ。縁側を歩くうちに、何かが転がっているのを見つける。

「にゃーん、にゃんにゃん。墨雪ー」
「…何してんだテメェ」
「うぉわッ、あっ、若旦那!」

縁側で猫と一緒になって寝転んでいた竹巳が慌てて起き上がって正座に直った。その様子に墨雪が顔を上げる。

「あ、あの、休憩貰って」
「あぁ。────飯は?」
「ま、まだです。さっき貰いに行ったんですけど、」
「…あ、猫じゃなくてお前」
「あ!俺は貰いました」
「ふぅん。んじゃ猫飯貰ってくっか」

どうせ竹巳が行ったから後回しにされたのだ。あの飯炊きは古くからいるせいもあって石頭だ。
竹巳の側を抜けて炊事場へ向かう。丁度彼女らの昼時のようだ。

「あらっ、若旦那。また握り飯でも?」
「いや、猫飯」
「あぁ…」
「昨日の刺身残ってたはずだろ」
「残してありますけどぉ…」

不満のある表情に苦笑する。刺身なんかを猫に、と言う思いなのだろう。どうせあの小さな体では二切れも満足 に食べられないのだから大したことではないというのに。三上が自分で刺身やらを欠けた皿に載せ、女達を適当にねぎらってまた縁側へ戻る。
墨雪がか細く鳴いて、小さな足で近寄ってきた。足元にじゃれついてくるので足を止める。

「す、墨」

竹巳が急いで寄ってきて墨雪を抱き上げた。抱かれて近くなった墨雪に、刺身をちぎって口に寄せる。

「あっ、若旦那、待って…痛ッ!」

刺身に目を光らせた墨雪の爪が竹巳の肩に刺さる。確信犯の三上は笑って猫を片手で抱き、縁側に座って前に皿と墨雪を下ろした。

「ほら」
「…わ…若旦那は、お昼済みましたか」
「おぅ。あ、夜要らねぇから言っといて」
「はい…お出かけですか」
「中西と飲んでくる。────なかにゃ行かねぇよ」
「お、俺は別に」
「うん」
「…」
「うわっお前、食うのヘタクソ」

刺身と喧嘩しているような猫の様子に三上は笑う。皿から刺身がこぼれた。

「俺遅くなるかもしんねーけど、こいつ適当に捕まえて部屋に転がしといてな」
「わかりました。…でもいいんですか?」
「あ?」
「誰もいなかったら墨雪何するかわかりませんよ」
「あっ…あ〜…お前いろ」
「えっ!でも」
「お前が見張ってろ。寝ててもいいから」
「そ、そんな!ひとりで若旦那の部屋になんて…」
「お前の部屋にゃ墨連れていけねーだろうが」
「ハァ…それはそうですが」
「頼むぞ。ほったらかしてたら捨てられるかもしんねぇしなぁ」
「流石にそれはないと思いますけど」
「どうだか。なー、墨雪。お前嫌われてるもんなー」

猫をあやす三上に竹巳は呆れ顔を見せた。

「…あまり遅くならないように気を付けて下さいね、通り魔が流行ってるそうですから」
「そんなもん時間より運だろ。運が悪けりゃ遭うだろーし」
「も〜…若旦那に何かあったら店はどうするんですか」
「あ?…お前にやるわ」
「はぁッ!?」
「お前がいりゃ店安泰だろ」
「じ、冗談ッ…」
「…そうだなァ、親父がおっちんだら俺が継ぐんだよな」
「…」
「そんときゃ、お前は俺のモンになんのかな」
「────え、」
「…」
「あ…」

三上がじっと見ると竹巳は露骨に目を逸らした。居心地が悪そうにする。

「あ…そうだ。竹巳、」
「はい…?」
「お前の妹が、来たいって言ってんだと」
「!」
「どうする?お前に会いに来るんだろう」
「…」

竹巳の妹は家の没落以降、竹巳同様に奉公に出ていたのだが、知らぬうちに騙されて大門をくぐらされていた。
何の縁か、三上の通っていた店の女だ。竹巳は一度会いに行ったきりである。

「…俺は…会うのが、怖いんです」

 

 

 

「いってらっしゃいませ」
「おぅ、あんまり遅いようなら迎え寄越してくれ、潰れてるかも知れねぇから」
「はい」
「行ってくる」

三上を送り出し、まだ火を入れない提灯をぶら下げた後ろ姿を見送る。角を曲がったのを見て竹巳は部屋へ戻っ た。店はもう閉めていて、旦那や奥方も今日は揃って芝居を見に行った。
ふと思い出し、縁側を歩きながら墨雪を探す。まさかまた木に登ってはいないだろうかと庭を見ていると、…例 の悲鳴が聞こえてくる。

「ちょっとォ…今日2度目だよ?」

薄暗くなってきた庭に降りて、大抵同じ木なのでそっちの方へ向かう。案の定女中の一人が木の下で困っていた 。

「みゆきちゃん」
「あ、竹巳さん…あの、雪ちゃんが」
「うん。しょうがない、登るか…」

竹巳が木の下に立って見上げると、枝から尻尾が垂れているのが見える。

「墨雪、…わッ、ちょっと待った!」

下に竹巳を見つけたせいか、墨雪が身を乗り出してくる。幹に爪を立てて上半身を殆ど下げて、飛び降りる気満々だ。
待って、なんて言ってみても相手は猫。次の瞬間には竹巳の胸に飛び込んでくる。

「うっ…」
「だ、大丈夫ですか?」
「衝撃が…」

猫と一緒に胃を押さえて竹巳は数歩よろけた。墨雪は何でもなかったように小さく鳴く。

「あ、みゆきちゃんもういいよ。ごめんね、帰るところだったでしょ」
「あ、えぇ…」
「じゃあまた明日」
「はい、お疲れ様です」
「お疲れ様」

女中を見送り、竹巳は猫を抱いて中へ戻った。竹巳は住み込みだが彼女は通いだ。竹巳には帰るうちがない。

(…あ、若旦那の部屋だっけ…)

手の中でごろごろ鳴く猫を撫でて立ち止まった。いくら許可が出たとは言え、若旦那の部屋にひとりでいるなど どうなのだろう。名目は猫の番だが、これが寝てしまえば用はなくなるのだ。しかし猫などいつ起きるか分から ないから、やはりいなくてはならないだろう。
まだ幼いのでこの猫は悪戯盛りだ。誰かがいれば悪さはしないが 、一匹にすると部屋がとんでもないことになる。

(…でも、逆らうわけにもいかないしな…)

結局竹巳は三上の部屋へ向かった。火の落ちた部屋におそるおそる足を踏み入れ、猫を降ろして明かりをつける。
こざっぱりとした部屋は綺麗に掃除が行き届いていた。女中は入れないようだから自分でしているのだろう。忠実な男だ。

「…はぁ」

思い出すのは昼間の問い。────妹は、何のつもりで自分に会う気なのだろう。会いたくないのが本音だ。
あの日、あのとき。久しぶりに会った妹は、『女』だった。場所が廓であるということもあったのかも知れない。 しかしそれとは別に、成熟しきった女だった。
だから竹巳は心底恨めしく思ったのだ。 辛いと己の心境を語る妹に沸いたのは、同情ではなく嫉妬。そのしなやかな体で男に寄り添うのだ。自分に出来ないことをするのだ。自分よりはるかに気を引けるのだ。

(────名前を呼ぶんだ)

男の。あの男の。

(代われるものなら代わってやりたい)

例え一瞬でも、あの男と気持ちを合わせられるなら、どんな苦痛にだって耐えてみせるのに。

(────若旦那が店を継いだら、男は若旦那のものになるんだろうか)

膝の上で眠ってしまった猫を撫でる。三上の撫でる猫すら憎いときさえあると言うのに。

(あぁ…俺、やっぱり駄目だ…)

三上が好きだ。そんな思いを店の若旦那に伝えられるはすがなく、行き場のない感情を抱えてから長い。彼がなかへ通いつめていた頃だって嫌いになれなかった。
ここへ来た頃、仕事などしたことのなかった竹巳が不満ばかり募らせていたのを変えたのが三上だった。全てが嫌になっていた頃に現れて、全てを変えていった。それはほんの些細なことだったし、三上でなくとも変わっただろう。
だから必ずしも三上でなくてはいけないわけじゃない。なのに。

(────早く帰ってこないかな…)

長い長い夜の始まりだった。

 


前に出した三笠パラレルの続き。続かなくてもわかるように書いたつもり…
くっつけるつもりだったんですけどね。

050915

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