「だ、駄目です若旦那!」
「うっせぇな、俺の気持ちぐらいわかってんだろ?」

逃げる男を布団に押さえつけ、怯える視線も無視して着物を崩した。いや、男臭さなど微塵もない、まだ成長途中の少年だ。若い肢体を振り回して抵抗してくるが、自分より一回りは小さいのだ、容易に押さえ込める。

「もう我慢できねぇ。観念しやがれ」
「にゃっ…」
「にゃ?」

気を抜かれて手を緩めれば、涙を溜めた目に睨まれる。しまったと思ったときにはもう遅い。野生を前に為すすべはなく、鋭い爪で引っかかれた。


く ち な わ


「いっ……てぇぇ!」

怯んだ隙に猫は逃げ出す。布団の上で悶絶していると、朝ですよと女中が入ってきた。なんとも芯の座った女で、堂々と若旦那の部屋に入ってきて更には痴態を鼻で笑ってくる。

「……竹巳は」
「何の話ですか。竹巳なら店先を掃除してますよ」
「サイッテー…」

失礼な、勘違いした女中が憤るが、若旦那はそれどころではない。ほらほら邪魔ですよ、追い立てられて大人しく腰を上げる。最近まで自室の掃除は自分でしていたが、真面目に働くようになってからはそんな時間がなくなった。のろのろと着替えて部屋を出る。
────えらい夢を見てしまった。確かに夢ではあったのだろう、頬はズキズキ痛い。夢でよかった、そう思うと同時に残念がっている自分がいる。最低だ。しばらく女を抱かないせいかもしれない。それにしても相手が相手だ、悪すぎる。夢のせいなのかひどく喉が乾いていた。

「うわぁ!」
「あ?」

がちゃんと食器が鳴り、見ると廊下で湯呑みが回っていた。そのそばで丁稚がひとり、湯呑みとこちらを見比べておろおろし、結局身動きが取れなくなっている。一瞬ひどく心臓が跳ねた。夢で組み敷いたのは、紛れもなく彼だからだ。

「ど…どうした」
「それはこっちが聞きたいです!その傷はどうなさったんですか!?」
「傷?」

それどころではなくてすっかり失念していたが、頬を引っかかれていたことをようやく思い出した。そんなに傷は深くないのだろうが、血が顎を伝う。そこにいて下さいね、と叫ぶように言って彼は廊下を駆けていった。湯呑みはとりあえず後回しにしたらしい。茶の中にあるそれを拾うと自分のものだ。と言うことは自分の部屋へ届けようとしていたのだろう。本当によく働く。
欠けもしなかった丈夫な湯呑みを盆に載せ、溜息を吐いた。こんなにも尽くしてくれるというのに、自分はと言えばあの夢だ。駆け戻ってきた丁稚、竹巳にとりあえず部屋へと促される。掃除中の女中に笑われることは目に見えて、ここでいい、と困らせた。

竹巳がここへ来たのはいつだろうか。元はそれなりに由緒ある家の長男であったのが没落し、三上屋に来ることになったのだ。慣れない仕事だったであろうがすぐに飲み込み、今では竹巳がいなければ店は回らない。

「若旦那の男前が台無しですね」
「……大したことねえよ」

竹巳は眉を寄せて薬を塗る。死ぬほど痛いがそれどころではない────近い。抱きしめてしまえるほどに近い。やはり部屋でなくてよかった。廊下に座り込んだ自分を誉める。
当三上屋の若旦那、三上は少し前まで有名な放蕩息子であった。昼夜問わず遊び歩き、花街では知らぬ者はいないとまで言われていたのだ。それがどうして女遊びをやめ、真面目に次期主人として働くようになったか……それはひとえに、竹巳に原因がある。厳密には問題があるのは三上だ。今朝の夢の通り、三上は竹巳を好いている。未成熟な体でくるくる働く、この熱心な生き物が愛おしくてたまらない。最近では毒を抜かないせいか遂にあんな夢まで見た。

「……お前、俺に逆らえるか」
「え?」

口走ってしまってから三上は慌てて取り消した。純粋な瞳が真っ直ぐ三上を見て、いたたまれなくなる。俺は今、何を考えた。

「しませんよ、そんなこと」

薬をしまいながら竹巳は笑う。そうだ。竹巳は嘘も吐いたことがない。長い蛇が、三上の中で鎌首をもたげる。

「若旦那がおっしゃるなら、地獄にだって使いに行きます」
「……馬鹿だな」

竹巳は笑う。廊下へついた、日に焼けた膝が気になった。ひと夏、店のために使いっぱしりを散々したのだから焼けるのも当然だ。腰に差していた手ぬぐいで床を拭き、台所に朝食を頼んでおきますからと伝えて竹巳は戻っていく。
焦がれても──こんな言葉を使ったことはなかった──焦がれても、手に入らない後ろ姿。

 

*

 

「なかに行ってくる」
「あら、珍しいこと。郭遊びなんか飽きたとおっしゃったのはどなた?」
「うるせー」

女中の嫌味を聞きながら羽織を準備させる。今朝の夢のせいで今日は1日、仕事もままならなかった。あんな若造にそこまで狂わされているのだ。もどかしい。

「若旦那お出かけですか?提灯持ちましょうか」

顔を出した竹巳に女中が笑いながら説明してやる。竹巳も同じように珍しいですね、と呟いた。しかしその表情はあまり明るくない。

「────いつものところへ?」
「ああ…多分な」
「では梅に会ったらよろしくお伝え下さい。今夜は冷えるようですから、暖かくして下さいね」

襟を正して溜息を吐く。竹巳が首を傾げたが説明はしない。
────竹巳には妹がいる。竹巳同様、家の没落後は奉公に出されていたが、竹巳が知らぬ間に売られていたらしい。三上が通っていた店の女になっている。それと知る前ではあるが、三上も相手をしたことがあった。あの世界の女にしては幼いが、やはり女は女、と思わざるを得ない女だ。以前竹巳に会いたいと、人を介して伝えてきたことを思い出す。

「お前、なんで妹に会わねえんだ」
「それは、その……俺の記憶にある梅は、違うんです」
「ああ……」

気高きお姫様、だったのだろう。彼女が呟いていたことがある。昔は怖いものなどなかった、兄が手を引き、父に守られ、母に愛されていた。
俯く竹巳の心を、三上は知らない。悪かったと頭を撫で、顔を上げた視線とぶつかり硬直してしまう。ゆっくりと手を離し、また無意味に襟を引いた。

「行ってくる。そこらで駕篭拾うから灯りはいい」
「はい。お迎えは?」
「……いや、帰るかわからん」
「わかりました。お気をつけて」

泣きそうな表情をすぐに捨てた丁稚に見送られ、三上は冷たい夜を歩き出した。そこらで駕篭を拾うつもりではあるが、今は体を冷やしたい。

(勃った……)

自己嫌悪に襲われて、自然足取りは早くなる。あんな表情を見たのは初めてだ。人に雇われたこと、それどころか働いたこともなかった少年が、三上屋へ来た頃はしょっちゅう隠れて泣いていた。三上は何度もその場に遭遇してしまい、適当なことを言って逃げだしていたのだ。徐々に目を腫らすこともなくし、いつからか笑顔が目立つようになった。いつの間にか踏み込まれていた。
恋は蛇のようなものだ、床で女が呟いたことがあるのをふと思い出した。音もなく近づいてきて、知らぬ間に食われてしまう。

結局花街まで歩いてしまう。早足で歩いたせいかどうか、興奮したように体は熱い。
馴染みの店で、三上についたのは梅だった。竹巳とは似ていない。色白で、瞳の色も薄い。細い指は、好みだ。

「兄様はお元気ですか」
「ああ、お前によろしくと」

酌を受けながら顔を見る。浮かぶ笑顔は素人のそれではない。なるほど、思って酒をなめる。竹巳が会いたくないのも少しはわかった。なまじ育ちがいいだけに親父受けする女だ。

「ご無沙汰してましたけど、女でもできたんですか」
「まさか。働き詰めで夢見る暇もねぇよ……」

いや、夢は見た。思い出してしまって思わずうつむく。幾ら後悔しても尽きない。夢は選ぶわけではないとはいえ、見たのは自分だ。どことなく妹にも悪い気がしてしまう。
今夜もお帰りに?聞かれて女を見る。誘う視線。最近は泊まって帰ったことはない。化粧を施したその顔に、なぜだか竹巳が重なった。自分を軽蔑しながら女の腕を引く。

 

*

 

「わっ、酒くさっ」
「どうしても帰ると言い張ったんだ」

店の主人に連れられて帰ってきた三上は見たことのないほど酔っぱらっていた。少しでも酔いが醒めるように夜風に当たってきていたが、それぐらいではどうにもならなかったらしい。歩いてきたのが不思議なほどだと思いきや、友人でもある辰巳がおぶってきたようだ。
到着してもなお辰巳にしがみついていた三上は竹巳に気づき、そっちへ手を伸ばす。千鳥足の若旦那はそのまま竹巳へ抱きついて、どかりと肩に体重をかけた。重いだとか酒臭いだとか考える余裕は笠井にはない。三上を持て余して顔を真っ赤にしている竹巳を見て、辰巳はそこにある感情に気づく。

「時間の問題だな」
「へ?」
「いや、こちらの話。部屋に転がして水でもぶっかけてやれ」
「あ、ありがとうございました、こんな夜更けに」
「起きて待ってたのか?」
「いつお帰りになるかわかりませんから」

屋敷からは気配がない。竹巳以外は眠っているのだろう、遊び人だった放蕩息子がたまに夜遊びに出ようが、気にする家じゃない。親に限らず使用人にしてみても同様だ。今までもそうだったのか尋ねてみると、竹巳は三上を落とさないよう気をつけながら否定する。

「以前は帰るか帰らないかはっきりおっしゃったので、お帰りになる日はお待ちしておりました。今日は多分としか聞きませんので、一応」
「そうか。……いい子だな。うちにほしいぐらいだ」
「ご冗談を。それに俺はここが好きなだけですから」

三上が、だろう。あっさりと断られたので意地悪を言ってやろうとすると、三上が顔を上げてさっさと帰れ、と手を振った。感謝されるべき立場だが、ここは黙って引いてやる。

「じゃあまた」
「はい、お気をつけて」

本来なら竹巳が灯りぐらい持つべきかもしれないが、三上がこれだ。辰巳を見送ったあと、竹巳は抱きついたままの三上を促して部屋へ向かう。

「今日はどうしたんです、嫌なことでもありました?」
「あー……ある意味」

酒にやられたのか声がひどい。足取りのおぼつかない三上を引いて、どうにか部屋まで連れ帰った。水持ってきますね、布団に三上を預けて離れようとしたが、三上が手を離さない。

「行くなよ」
「若旦那、水取ってくるだけですから」
「ンなのいらねえからよ」
「あっ」

腕を引かれて一緒に布団に倒れ込む。離れようともがく竹巳を容易に押さえ込み、三上は乱暴な手つきで頭を撫でてきた。完全に抱き込まれて竹巳の体温は上がっていく。

「わ…若旦那!」
「ケチケチすんなよ、なんもしねぇから」
「ちょっとッ…」

死にそうだ。このまま死んだって不思議はない。心臓が早鐘のように打っている。こんな至近距離にいられては、その音が聞こえはしないだろうかと不安になる。浅ましいこの思いを知られはしないだろうかと。泣きそうだ。

「竹巳、離れんなよ」
「若旦那……」
「好きだ」

ひゅっと息を飲んだ。今一瞬、間違いなく死んだ。耳元で囁かれた、何よりも甘い言葉。

「まじめにくるくる働いて、お前がいないとなんもできねぇ」
「……お側にいます」

使用人でいいのだ。側にいられれば。酒に飲まれた声はまだ何か続けたが、ほとんど言葉になっていない。

(そりゃそうだ…)

酒に混じって香るおしろいは、竹巳を現実に引き戻す。どうして一瞬でも血迷ったのだろう、そんなはずはないのに。

「…今日だけ許して下さいね」

竹巳を抱いたまま寝入ってしまった三上を見上げ、その胸で丸くなる。酒のにおいが強すぎて、竹巳まで酔わされたのかもしれなかった。

 

*

 

荒々しく廊下を走り回る足音で三上は目覚めた。頭がひどく重い。のっそりと、老犬のように億劫そうに起き上がり、自室にいるのに首を傾げた。昨夜辰巳の店で飲んだ記憶があるが、果たして店を出ただろうか。しかしここにいると言うことは帰ってきたのだ。どの辺りから記憶がないのかわからないが、相当飲んだことは確かだ。爽やかな鳥の鳴き声などが聞こえてくるが、とにかく頭が痛い。再び布団に潜り込もうとそれをめくる。

「────はっ?」
「ん…」

寒かったのか、身じろぎしたそれはこっちを見ようとした。とっさに布団でそれを隠す。
────何がどうなって、竹巳が俺の布団の中に?正座をして考え出す三上の後ろで竹巳は体を起こした。黙って着物を直す竹巳の様子を伺う三上が相当怯えていることに、竹巳が冷静ならば気づいただろう。 竹巳が必死で平静を装っていることも、三上が落ち着いていればわかっていただろうにこの通りだ。

「若旦那」
「は…はい」
「飲みすぎです」
「…み、みたいです、ね……」
「…昨夜のこと、覚えてらっしゃいますか?辰巳様が連れてきて下さったんですよ」
「辰巳?」
「それで俺が部屋まで連れてきたら、」
「ちょっ……ちょっと、待て。俺お前になんかしたか?」
「な――――何もありません!引き止められて離して下さらないから俺もここで寝る羽目になっただけです!」

事実何もなかったのだが、いかんせん三上には記憶がない。竹巳が主人に気を使って言っているだけなのか、真実なのか、三上に判断材料はなかった。なんせ――――似たような夢を、つい昨日見たばかりだ。巳は顔を真っ赤にし、また三上は顔を青くしてふたりは時間の進め方がわからない。
何か言わなければ竹巳も部屋を出ることができないだろうことはわかるのだが、三上にはどうしようもなかった。混乱する頭を整理しているところに、廊下の足音は一層うるさくなり、声に気づいたのか三上の部屋へ突入してきた。足音の主は父親だ。

「おい馬鹿息子!お前帰ってたのか……竹巳!」
「あ、旦那様」
「お前ここにいたのか!朝から姿が見えないからどうしたのかと……お前まさかッ」
「ち……ちげぇよこの耄碌ジジィ!」

自分で叫んでしまってから三上は頭を抱えて布団に倒れこむ。竹巳が慌てて立ち上がり、水を取りに台所へ走った。どうやら騒がしい足音は竹巳を探していただけのようで、用の済んだ一家の大黒柱は三上を置いて竹巳を追いかける。本当に何もなかったのかしつこく聞くつもりだろう。今はそんなことはどうでもいい、とにかく頭が痛い。二日酔いするまで飲んだのは久しぶりだ。

(……最低…)

何がって、何も覚えてないことに後悔する自分のことが。
例え一時のかりそめでも、この手にぬくもりがあったのに。

 

 


…酔っ払いって酷いよね、って話。
三笠の日に書いてたのでくっつける予定だったんですが間に合わず、間に原稿入ったので遅くなった。んでくっつける気はなくなった。

061024

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