二、

 

 

恋じゃなかったはずだ。だから、根岸は誰にでもなく言い訳をする。だから、この気持ちは、嘘だ。早鐘のように打つ心臓を押さえ、根岸はその場にしゃがみこむ。全力疾走した後のように心臓が早い。指先まで血が巡っているのがわかる。……恋では、なかったはずなのだ。なったとしたのなら、今のこの一瞬で自分は恋に落ちたのだろう。
昨日とはうって変わって晴れた日、今日は部活があるから理由もなく辰巳に会える。それでも放課後まで待ちきれなくて、昨日のお礼を言うためにも朝の図書室へ向かった。今日はまだグランドが濡れていたので朝連は休みの連絡があったのだ。朝の図書室は生徒を迎え入れやすくするためドアが開けられている。それでも朝早く来るものは大抵朝連のためであり、わざわざ図書室へ行くためだけに早めに家を出る生徒は滅多にいない。図書委員でさえいないことがあるが、今朝は辰巳が早く出て行ったのを知っている。だから、もしかしたらふたりで話ができるかもしれないと、少しだけ期待していた。自分がうまく話せるかわからないけれど、少しでも近づきたくて。高鳴る鼓動に更に緊張しながら、図書室へそっと入った根岸が見たのは、辰巳だけではなかった。カウンターの向こう側の辰巳の前に、中西が立っている。すっと伸びた背筋から、いつも感じられる毅然とした美しさはない。代わりにあるのはもっと柔らかな、春のような。

顔を上げた辰巳が浮かべた笑みを見た瞬間、根岸は図書室を飛び出した。見てはいけないような気がしたのだ。ふるりと背筋が震えて、火照った頬を持て余す。廊下の端まで走りきってしまって、辰巳ならこんなにスカートを跳ね上げて走ったりしないのだろうと恥ずかしくなった。階段にしゃがみ込んで、そんなに距離はなかったのに荒くなった息を飲み込む。頭の中が一杯だった。何も、証拠も確信もあるわけじゃない。それでもそこにあるものに気づかずにはおれなかった。
──中西と辰巳が親しいことも知らなかった。ふたりは同じように憧れの的であるが、両極端の存在だと思っていたのに。水と油とまでいかなくとも、似て非なるものだった。

「ネギっちゃん? どうしたの?」
「あ」

慌てて勢いよく顔を上げると笠井が目を丸くしている。びっくりしたのはこちらも同じだ。足音も何も聞こえなかった。

「具合悪いの?」
「……ううん、大丈夫」

笠井がいた。伝えようか迷う。しかし確かめたわけではないし、それなら無駄に傷つけるだけになってしまうのではないかと恐れた。自分はとんでもないことに気づいてしまったような気がして、口の中が乾く。笠井が心配そうな顔を向けてくるが、どうしたらいいのかわからなかった。いつもこうだ。辰巳が傘を貸してくれたときのことを思い出し、なんだか切なくなる。

「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
「そう? ……じゃあね」
「どこ行くの?」
「図書室。社会で課題出てたの思い出して」
「と、図書室?」
「うん。辰巳先輩だから開いてるでしょ」

とっさに嘘がつけるほど器用ではない。根岸が言葉を探していると笠井は首を傾げて根岸の心配をする。この子が傷つくのを、どうして止めればいいのだろう。これ以上一緒にいると泣きそうな気がして、結局笠井を見送った。迷った根岸は再び走り出す。自分には、傷ついた笠井を慰められない。

「大丈夫かな……」

普段からやや落ち着きに欠ける子ではあるが、あそこまでうろたえている様子はあまり見たことがない。場を和ます優しい雰囲気が、さっきは何かに覆い隠されてしまっていた。後でまた様子を見に行こう、と笠井は図書室へ向かう。藤代と一緒だと行けない場所だ。開け放したドアから入って何気なく辰巳を探すと、本を広げてカウンターで談笑している。一緒に本を覗き込んでいるのは中西だ。体を少しかがめて、額同士がぶつかりそうになっている。根岸が言いたかったことがわかった。
自分の思いが伝わっていたことぐらいわかっている。それでも隠しきれなかった。中西の迷惑になるかもしれないと気づいていながら、そうしながら他の誰かを近づけにくくしていた。どろりと、隠していたものが溢れる。静かな笑い声を遮るまいと、ゆっくり廊下へ出た。窓へ寄って額を冷やす。深呼吸をすると窓が曇った。外は快晴、気持ちのいい日だ。

「笠井」

サッシに爪を立てると手が制した。顔を上げると三上がいる。知ってましたか、口をついたのはそんな言葉だった。三上が悪いわけではないのに、口調が厳しくなってしまう。嫌だ。こんな自分は嫌いなのに、自分で何もできない。

「何を?」
「……嘘が、下手」

あっと言う間に視界が涙に沈む。日差しに反射する三上の校章がまぶしくて目を閉じると、借り物のブレザーにしみを作った。恥ずかしい、かすれた声を聞かなかったかのように笠井の手を取り、三上は黙って歩き出す。階段のところで声をかけて一段ずつ降り、連れて行かれたのは保健室だ。鍵を開けて三上が中に入るのを見ていると、内緒、と囁かれた。幸か不幸か親しくなった養護教諭が、卒業まで貸してくれたのだと説明する。

「顔ひどい」

ハンカチが頬に触れてまた涙がこみ上げた。白いベッドに座らされて、渡されたハンカチを握りしめて泣き続ける。

「──中西な、許婚がいるって知ってるか?」

三上は隣に座って頭を撫でる。一瞬体を硬直させ、泣きじゃくる後輩は膝に崩れてきて、できるだけ優しく触れた。暖めるように肩を抱いて柔らかい髪をすく。時々意味をなさない声が漏れたが黙って泣かせた。どうせ授業には間に合わないだろう。──自分はこんなに可愛くなれない。笠井を撫でながら目を閉じる。意地を張るぐらいなら素直に泣ける方がずっといい。中西がずっと大切にしていたものをはっきり目の当たりにする。小鳥を慰めるようなつもりでずっと抱いていた。しびれを感じても辛くはない。顔を上げてふと見た窓の向こうの校舎に、渋沢と藤代が見えた。最後の試合が近づいてくる。引退すれば卒業まですぐだろう。

(……藤代に、ちゃんと言おう)

笠井は暖かい。それが救いだと思った。一緒に泣いてしまいそうになる。窓からふたりの姿が消えていく。

窓越しに三上が見ていたことなど気づいていないふたりは教室へ向かっていた。ほとんど藤代が喋っている。笠井に起こされた後二度寝してしまっていたら渋沢に起こされ、そのまま一緒に登校した。早く寝ないからだと説教されながらの登校で、藤代は少し後悔している。渋沢は決して嫌いではないが、トラブルメーカーの自覚のある藤代にとってはある意味鬼門だ。

「──昨日三上先輩なんか言ってました?」
「いや。……何かしたのか?」
「イイエ別に」
「あんまりからかってやるなよ、あれは繊細だから」
「別に、からかってるわけじゃないけど」

渋沢は後輩を見る。口をとがらせて言い訳をしているが、どこか笑いを殺せていない。妙に納得してしまい、深く息を吐く。三上が惹かれるのは、巧みに隠された本当の気持ちを感じているからかもしれない。女子校とは言え異性と縁がなかったわけではないし、可愛い後輩から真摯な告白を受けたこともある。それでも結局自分は恋をしなかった。すっかりお母さんのポジションに落ち着いてしまったのはそのせいもあるかもしれない。

(卒業までにする、のもなあ)

恋はするものでなく落ちるものだと知っている。隣を歩く藤代が羨ましくなった。三上も笠井も、手探りに恋愛をしているのを見ているとなんとなく楽しかったのを思い出す。本人たちは必死だったのだろうが、静かな映画を見ているようだった。――どれだけ涙を流すのだろう。思わず溜息を吐いた渋沢を藤代が振り返った。

「俺なんかしました?」
「……俺だっていつもいつもお前のことで溜息吐いてるわけじゃないよ」
 

     *
 

「辰巳先輩、少し、お話したいんですけど」
「……わかった」

辰巳はまっすぐ立ち上がる。泣きすぎてしまって一時間目は欠席してしまったが、三上まで一緒に抜けさせてしまったので次からは授業に参加した。涙は止まったものの、そわそわと落ち着かなくて昼休みに来てしまったのだが、これはこれで緊張して落ち着かない。同じ図書委員に抜けることを告げて、司書室の方へ移動する。

「どうした?」
「あ……」

改まると何も言うことがない。うつむいて指先を弄ぶ。自分が何を言える立場だろう。おまけに今朝の行為は覗き見だ。急に恥ずかしくなってきて、それでも呼び出した手前今更用がないとも言えない。態度を決めかねていると辰巳が先に口を開いてとっさに顔を上げた。まっすぐな目に息が止まる。

「人違いだったら悪いけど、朝図書室に来たのは笠井かな」
「……はい」
「そう」
「あの……先輩たちは、その」
「……俺は、中西のことをよく知らないんだ」

辰巳の声を、久しぶりに聞く気がする。物静かな先輩だか、そうかと言って大人しいわけではない。レギュラーをしているだけの実力は技術的なものに限らず、その芯の強さは信頼できる。いざというときに頼りになる先輩だが、笠井はまだ戸惑っていた。その言葉は、何を意味するのかと怯えていた。

「……中西先輩に、決まった人がいることは?」
「聞いたのか? ……それは知ってるよ」
「知ってて、……お付き合いを?」
「お付き合いなんて、そんな大層なこと。……好きなだけだよ」

どうしてそんなに笑えるのだろう。どんどん自分が嫌な存在に思えてくる。ゆっくり息を吐いて辰巳を見る。笠井はそんなに大人になれない。視界が潤んできて、笠井はまたうつむいた。もう散々泣いたと言うのに。

「……後悔したくなかっただけ」
「後悔……」

背後でドアが開けられて、驚きで目に溜まった涙が落ちた。辰巳先輩、呼ばれた辰巳は軽く手を挙げて応える。

「笠井、いいかな」
「あ……はい、忙しいのにすみませんでした」
「いいよ、また話があるなら呼んで」

笠井を促して部屋を出る。ひょこっとお辞儀をして、逃げるように図書室を出て行った後輩の背中を見ながら反省した。他の言い方ができなかったのだろうか。先輩のふりをしながら、優越感を持たなかっただろうか。浅ましい。勝負事ではないのに。だんだん、独占欲が育っている気がする。

(……恋は)

後輩の質問に答えながら、少しの間思いを馳せる。きっとこんな思いは、最初で最後だ。二度とこんな思いはしたくない。 きっかけも何も忘れてしまって、形のないものだけが 残っている。あの可愛い後輩も、こんなに苦しんでいるのだろうか。そうだとしたら悲しいものだ。本当に欲しいものは手に入らない。ロミオとジュリエットのように命を捧げるほどの恋も、真夏の夜の夢のように一途に見つめ続ける恋も、手に入らなかった。結局いつも中途半端だ。日常を送るにも夢を追うにも、いつも少しだけ足りない。一歩踏み出す努力も勇気もなかった。
恋は醜い。そう思ったときに中西が図書室に顔を出す。わずかに動揺を隠して挨拶をする。こういうところが可愛くないのだろう。なれるならば笠井のような子になりたかった。返された本を受け取り、機械的に返却手続きをする。 慣れた手つきを中西はいつも黙って見ている。

「どうだった?」
「やっぱり俺はシェイクスピアなら悲劇より喜劇がいい」
「他にもあるからまた借りにくるといいよ」
「うん。今日は課題出たから無理かな。鞄重いし」

中西の言葉に笑い返すと笑顔を向けられる。好きなだけ、確かにそれだけだ。ほしいと思うから手に入らないのだろうか。せめて会うたびに感じる隔たりをなくしたいのに、作り出しているのは結局自分だ。本棚を見に行く中西を見送り、カウンターにつく。次の時間が体育なので後輩は抜けていった。他の利用者の姿もほとんどない。なんだかんだと三年間、ここに座っている。寮生ではない辰巳にとっては部室と並んで落ち着く場所だ。もしかしたら部室よりも。

「返却、お願いします」
「はい。ああ……根岸」
「今日は間に合いました」

笑う後輩に差し出された本を受け取る。風邪をひかなかったようでよかったと告げると少し慌てた様子を見せた。大きな声を出しかけてすぐに抑える。

「傘、ありがとうございました。ほんとに助かりました」
「いや……そういえば、車が水跳ねたんだって? 根岸は大丈夫だったのか?」
「あ、聞きました? 俺は大丈夫です。ひどかったのが笠井と中西先輩で、中西先輩がクリーニング代をふんだくってました」
「ふんだくるって、人聞きが悪いわね」

文庫本を手に戻ってきた中西が背後に立ち、根岸はピンッと体を伸ばした。笑いながら本を辰巳に渡す中西を見ながら、ゆっくり緊張を解く様はアニメーションのようだ。

「真夏の夜の夢」
「中西先輩難しそうなの読みますねえ」
「根岸はなんか借りないの?」
「しばらく読んでたけど、やっぱり俺には合わないみたいです。図書室遠いし、返すの忘れるし、ゲーム買ったから読む時間ないし」

中西が吹き出したのを笑い、根岸は挨拶をして図書室を出た。利用者は誰もいなくなり、根岸はふたりを振り返る。自分に笑い返して見送ってくれる先輩ふたりは知らない人のようにも見えた。それでも、ずっと憧れていた人だ。深呼吸をして廊下を歩き出す。
根岸を見送って辰巳は立ち上がった。鍵をかけることを中西以外は残っていない図書室に声をかけ、棚の陰に誰もいないか確認に回る。中西は手持ち無沙汰に、手続きの済んだ本を開いた。カード式の貸し出しで、後ろに貸し出し記録が残っている。時々辰巳の名前を見つけることがあって、何となく嬉しい。このカードには意外にも三上の名前が見つかり、戻ってきた辰巳にも見せてみる。

「三上はロマンチストね」
「中西は?」
「……俺は、嫌でも現実を見ちゃうなあ」

カードを戻して表題を眺める。こんな夢のように、一瞬ならばいいとどんなに願ったことか。それでも、どれが夢であってほしいのかわからない。自分に課せられた約束か、出会ってしまったことか、この思いか。
藤代はパックみたいだな、鍵を探しながら辰巳が呟く。

「ダッタン人の矢よりも早く、だっけ。……じゃあ俺は、タイターニア」
「中西が?」
「そう、媚薬のせいで、ロバ頭のボトムに恋をしてるの」
「じゃあ俺がボトムか」
「……そうだよ」
「中西」
「そうだよ、俺にはオーベロンがいる。ちゃんと、旦那様が」

こんなことを言いたいわけではないのに。少しだけ悲しそうな表情を作った気がするのに、辰巳は相変わらずだった。歩くのについていって、ドアに手をかけたところを引き止める。予鈴が鳴るまで、声がかすれた。好きだと、一言、告げたいと思いながらも叶わない。言ってはいけない気がする。言わなくても伝わっているだろうなんて甘えたくはないけれど、それでも、きっと告げてはいけないのにいつか口にしてしまう気がする。

「……藤代のせいみたいになっちゃうね」
「どうしたら」

顔を上げたときに予鈴が鳴った。黙って図書室を出て、辰巳は鍵をかける。それと一緒に口も閉じてしまった。柔らかそうな体ではないのに女らしさを感じるのはその物腰のせいなのか。後輩でなくとも見惚れる姿は近寄りがたいときさえある。鍵を返しに行く辰巳とは図書室の前で別れた。その背中を見送っていると泣きたくなって目を伏せる。手にした文庫本の存在感が大きい。みんなが幸せになればいいのに。

「俺はお前の幸せなんか願わないよ」

聞こえないと知っていて口にする。授業前のざわめきが耳に届いてくるけれど足が動かなかった。いつもこの一瞬が悲しい。他の誰が幸せになっても、辰巳だけは、罪悪感に顔を上げるともうその姿はなかった。ゆっくりと振り返って教室へ歩き出す。
俺がいないのに幸せになられたら困るよ、そんなことは口に出せないけれど、ずっと思っていた。パックに頼んで媚薬を持ってきてもらおうか、そうすれば自分もあの男を愛せるかもしれない。嫌いとは言わないけれど、辰巳の存在が大きすぎて許婚の存在は重かった。辰巳以上に好きになれるとは思えない。あんなにも無条件に、自分を受け入れて笑う彼女を見てしまっては。文庫本のようにお手軽な恋でよかったのに、どうしてこんなにも。

「中西」

名前を呼ばれて立ち止まると渋沢が隣に立った。どうした、と目尻を撫でられる。母親同士が懇意であったために付き合いの続いてきた腐れ縁だが、こんなときばかり物分りがよくて嫌になる。……大人のふりなんかしなきゃよかった。そうすればもう少し、相談しやすい友人でもできただろうに。溜息を吐いて顔を上げた。

「お前、三上に許婚のこと話しただろ」
「……ああ、うっかりな」
「うっかりじゃないよ、あの正直者のお人よしにばれたら時間の問題だわ」
「俺はね、お前に幾つも切り札を持ってて欲しくないんだよ」
「……ふん、初恋もまだなやつに説教されたくないね」

恋の先に何があるのだろう。スカートを翻して中西は歩き出した。

 

 

 

 

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