「先輩 寝てない?」
「…寝てる」
「起きてる」

風邪引きますよ、拾われたシャツが肩に掛けられた。隣でゆっくり体を起こした笠井が部屋の豆電球の中で自分のシャツを着るのが気配で分かる。
テストが終わったばかりの夜、ついさっきまで笠井でいっぱいだった頭の中に英単語や古典常識がまざりあって三上の思考を埋めていた。
源氏物語の入り乱れた人物関係に三角比の公式、応仁の乱と仮定法…

「先輩、」

乱れた頭に潜り込む、笠井の声。
邪魔をされた、と一瞬思う。乱された、頭を、心を。
ベッドに横になる三上の、かけられた布団の上から笠井の指先が腕を這う。指先で叩いてトントンと歩くような動き、それに合わせて言葉にしがたい物が足から這い上がってくる。気持ちが悪いような気がする、快感。手は肩で止まり、手の平がひたりと触れた。
そして笠井の紡ぎ出す睦言、その旋律。

「最後にしません?」

源義仲花粉四分子attitude────…

「え?」
「だって、先輩受験生だし。大変でしょ、大学受験」
「…」

三上が見上げると笠井は一度三上を見て顔をそらす。
隣に潜り込んで、だけど触れ合うのは背中と背中。シャツ越しの体温が頭をクリアにする。

「俺先輩の邪魔にはなりたくないし、どうせ来年になったらそんなに会えないじゃないですか」
「…笠井、」

俺は────俺は?
何と続けたらいいのか分からなかった。
何故か浮かぶのは化学式、あやふやだ。確認したくなる、教科書はそこにあるけれど。そして、…さっき笠井を邪魔だと思ったことを思い出す。

「だって俺は会えないまま自然消滅、とかは嫌です」

どうせならきっぱりと。
頭は笠井の声が綺麗にしてくれるのに、出てくるのは今この場では役に立たない知識。それは今蓄積しているもので、少なくとも今この瞬間においては必要ないが数カ月後まで保たなければならないものだ。

「心配するから誠二とか中西先輩とかには内緒で、そうしません?」

何を?
笠井のセリフが頭を巡るが消化出来ない。
最後におやすみなさいで締めくくり、背中と背中を合わせて眠る。若干曲がった背中は互いに合わない。初めてのそんな夜に緊張した。

────どうせなら、嫌になったと嘘でも言ってくれればいいのに。
そんな理由じゃ分からない。

 

 

 

ポ ー カ ー フ ェ イ ス

 

 

 

「おはようございます」
「……笠井」
「ホラ起きて下さいよ」

────夢だった。三上は頭をかいて起きあがる。どの辺りから夢だったんだろうか。

「先輩、俺先行きますからね。────あ、あと」

一度部屋に帰ったのか、着替え終えている笠井はドアへ向かう途中に振り返った。
いつもと変わらない表情。だけどいつもと違うのは、それは三上へ向けるものではなくて。

「俺明日から起こしませんから自力で起きて下さいよ」
「────かさッ、」

寝起きの頭は回らない。振り返ったときには笠井は部屋を出てしまっている。
何も────部屋には何も残っていない。笠井は何も残していない、後味の悪さ以外は。予習が要ると言って持ってきていた教材も、置く場所がないと勝手に置いていった雑誌も。探したら髪すらないのではないかと思い、三上は目を閉じた。
憂鬱な朝の音が聞こえる。何か気に触ることをしただろうかと自問するが、思い当たることはない。

手の平に温もりも残さず逃げてしまった青い鳥。
────期待していたせいか?何かしてくれるのではないかと、甘え切っていたせいだろうか。何度も思考を巡り、思い当たっては撤回する。

(いや…いや、)

どうせまたいつものやつだ。時々ふっと言い出すいつもの。
彼の中で何が起きているのか分からないが、時々笠井は三上への態度を急に変える。
きっと今は気分でも落ち込んでいるのだろう、しばらく放っておけばまたいつものように戻ってくる…いつもとは様子が違うと気付いていることを押し隠し。

 

*

 

「あ、三上先輩だ」

藤代の声に、笠井は反射的に窓を見た。幸か不幸か、笠井の位置からは誰も見えない。藤代が窓から身を乗り出して何やらからかっているから、窓のほぼ真下にいるのだろう。
走り出していた心臓を抑えながら、次の時間のノートを必死で写す。結局昨日は予習が出来なかった。いつものように。
でも次からは、時間があるのだから終わらせることが出来るだろう。友人にまたかよと呆れられることも迷惑をかけることもなく、勉強にサッカーに集中して。時間に縛られず、人の目も気にせず過ごせるようになる。
────まるで彼が悪かったようだ。

(…ンなわけあるか…)
「あッ笠井、ノート!」
「あ、悪い、ありがとう!」

時計を見て自分のクラスに帰る友人にノートを返した。藤代はまだ窓の外とふざけ合っている。
結局予習のいるはずの部分を全部うつせなかったが、まぁいいかと諦めて筆箱にシャーペンを戻す。…コロンと出てきた消しゴムは、三上のもので。

(…あー…昨日、一緒に予習してたから)

三上は早々に返されたテストの見返しを。笠井にはまだよく分からない進路のことをぶつぶつ言いながら。
途中で成り行きみたいに焦って体を求めてぶつかって、最後に言葉を吐き捨てた。
何度となく頭の中で告げたセリフ。彼はどう取っただろうか。本気であることに気付いてほしいのと同時に、気付かれてほしくもない矛盾した気持ち。

(…やべ、ちょっと気分悪い…)
「笠井?」
「え?」

ふっと顔を上げるとそこには教師。
席を立ったクラスメイトの視線が笠井に集まっている。いつの間にか教師が来て、起立の号令がかかったらしい。

「あ、」
「どうした、顔色悪いな」
「あ…あの、ちょっと気分悪くて、…保健室行っていいですか…」
「あぁ、行ってこい」

笠井は立ち上がり、一礼して教室を出る。チャイムは鳴ったんだろうが聞こえなかった。
礼、と自分が出てきた教室から号令が聞こえ、不揃いな椅子を引く音が続いた。授業が始まったばかりの廊下を歩く。窓を開けられていた教室の前で、友人に引き留められて彼が教師に小言を食らった。

────静かな保健室へ入るのに若干緊張しながらドアに手をかける。

「…失礼します」
「はーい…どうしたの?」

何か書いていた手を止めて、眼鏡をかけた養護員の女性は席を立って笠井に近付く。
顔色が悪いわね、とさっきの教師と同じことを言った。テンションが低いと顔色まで悪くなるものだろうか。それとも病は気からと言うやつか。

「熱はないみたいだけど一応計って」
「はい」
「昨日寝た?」
「…あんまり、」
「じゃあ寝不足かな。テストの間夜更かしして、終わってからも調子に乗って遅くまで遊んでたんじゃない?」

テスト終わったからって調子乗ってあんなことやこんなことを。
勿論口にはしないが思ってみて、あまりのくだらなさに笑うことすら出来ない。だってしばらく我慢していたのは事実で、今だってこんなにほしいのに。
体温計が鳴り、教諭は平熱であることを確認する。

「どうする?寝不足ならこの時間だけ寝ていく?」
「…じゃあ、」
「そうしなさい。じゃあこっち」

ベッドの周りを覆うカーテンを開けて、彼女について奥のベッドへいく。
ベッドに横になると足元の布団を優しくかけてくれた。変な柄の枕を動かして具合のいいところを探す。布団は少しかたい。

「窓開けようか」
「…少し」
「じゃあお休みなさい、時間になったら起こすわ」
「はい」

目を閉じる。カーテンが閉められ、足音が遠ざかった。
少し開けられた窓からランニングの号令が聞こえてくる。体育か、あぁ、三上先輩体育だ…そこまで思って、無理に頭の中を空にする。頭の中でピアノを叩き、思い付く曲をひたすら流した。
窓から入る風でカーテンが揺れて、その動きでカーテンレールから少しずつ動く。その音が妙に心地よい。冷蔵庫か何かの静かな機械音と紙のめくれる音。
遠くグランドから騒ぐ声が聞こえた。

(…先輩、体育サッカーって言ってた…)

今なら冗談に出来る。
今なら誤魔化せる。
今ならごめんの一言で済む。

今なら…?

「センセー!」
「!」
びくりとして体をすくめた。聞こえたのは三上の声。
グランドに面した方のドアが開いたのだろうか、部屋に一気に風が入ってきた。

「どうしたの?」
「膝擦りむいた」
「あらあら。ほら靴脱いで、あぁ、その前にそこの水道で洗ってこっちにいらっしゃい」
「はーい」
「三上くん怪我多いわねー」
「そーっスか?」
「落ち着きがないんじゃないの?」
「ヒデェ。俺こばやんよりは大人だと思うー」
「小林先生は生徒に馴染み過ぎよねぇ…」
「ハハッ、言われてら」

水音が少し続き、いててと呟く三上の声がする。捻挫とかではないようで安心した。
カーテンはしまっているのだからこちらが見えるわけではないが、笠井は頭まで布団を引っ張る。その音で気付いて三上が声を落とした。

「ごめんセンセー、人いた?」
「そう、寝不足の子」
「え、ここ寝不足で寝かしてくれんの?俺も寝不足ー」
「君は元気そうだから大丈夫。あらま、派手にやったわね。絆創膏じゃ足りないわ」
「お、でも血ィ止まってる」
「ちょっと大袈裟になるけどガーゼ当てときましょうか。こっちおいで」
「うん」

靴を脱ぎ捨てる音。どの程度の怪我なんだろうか。

(────俺には関係ないけど)
「…なぁセンセー、俺、もしかしたら人を怒らせたかもしんねーんだけど」
「何、相談?」
「相談ってほどじゃないけど。でも、俺は何で怒ってるのか分かんなくて…つか怒ってるかどうかもよく分かんねぇけど」
「友達?」
「…つ、きあってる人、いや違う、ふられたみたい」

ぎゅっと指先が痛くなる。ピリピリとした変な感覚。
違う、あなたが心を痛める必要はない。悪いのは全部俺で、全部俺のわがままなのに…

「ほんとに心当たりないの?」
「だって直前まで、普通に……話してたのに」
「ふうん…」
「…テスト終わったらどっか行こうって、言ってたのに」

────そう。もう部活も引退して、あとは勉強だけだから、その前に一度、と。
約束はしたけど。

「────あいつ、わっかんねぇから」
「分かんないって?」
「…俺のこと好きなのか嫌いなのか、…いや、好かれてるのは分かってんだ、少なくとも嫌われてはないと思う。でもよく分かんなくなった。嫌いじゃないなら何で分かれるとか言うのか」
「うーん…受験生だし、不安なんじゃない?」
「不安?」
「私のときは、だけど。高校出たらみんなバラバラになっちゃうでしょ」
「…それはない」
「そう?」
「…あー…でも…そうなのかな。でも俺は、距離とか、どうにでもなると思う…」
「…さ、相談なら昼休みにでもおいで。君の治療は終わり!」
「あッ、そーだった、点入ってたらヤベェ。センセーありがと!」
「気をつけて」

慌ただしく三上が保健室を出ていった。
────外れ。外れだ。外れだけど、当たりなのかもしれない。笠井は布団の中でまばたきをしてみる。目を閉じても暗くならない。

(怖いのは 距離)

もうこれ以上ないほど近くにいるのに、もっともっと傍へ行きたくなる自分の浅ましさが恐ろしい。

(大嫌いだよ、あんたなんか…)

 

*

 

「────三上先輩」

緊張する。出来るだけポーカーフェイスを保って声をかける。
振り返った三上もポーカーフェイスで、ふたりで何をしているのかと笠井はいっそ笑おうと思った。笑えないまま、これ、と消しゴムを差し出す。
ふたりにはなりたくなくて、選んだ場所は談話室。テレビでお笑いをやっていて人口密度は高い。テレビ番組をひとつ見たか見なかったで彼らの明日は狂うのだ。

「…やっぱり持ってったのテメーか」
「すいません」
「いーけど。もう一個あるし」
「…なんだ、じゃあ貰っとけばよかった。わざわざ先輩探して損した」
「ンだとオイ」
「…それ 何見てるんですか?分厚い」
「大学の資料」
「女子大行くんですか…」
「たまたま開いてただけだろーが!」

パラパラとページを繰って、探しているのは関西圏。やはり実家の近くで探しているのだろうか。
ついいつもの調子で一緒に本を覗き込むと、三上はちらっと顔を上げる。

「────俺が遠く行ったら、寂しい?」
「まさか」
「…可愛くねーの」

カマでもかけてみたつもりか。いつものように冷やかして笑って。

「あーっ、三上先輩、あんまりタクいじめないで下さいよー」
「うっせー馬鹿代、お前は寄ってくんな」
「ヒデー。もーちょっとタクをいたわってあげないとそのうちマジで捨てられますからね」
「…」

何かを言いかけて三上が笠井を見た。笠井はそっちを見ずに藤代に相槌を打つ。

「今日だってタク気分悪いって保健室行っちゃうしさー、寝不足だったけど」
「!」

三上と目が合った。笠井が怯んだ一瞬を三上は逃さない。掴まれた腕を振り払って笠井は逃げ出し、三上が重たい資料を捨ておいてそれを追った。
逃げると言ってもたかが知れていて、笠井は丁度人気のない資料室へ飛び込む。薄暗い中を走り抜けるつもりが段ボールにつまずき、それで追いついた三上に捕まった。
壁に押しつけられて、たった少しの距離なのに本気で走って乱れた息を整える。笠井が何となく笑ってしまったのを三上が睨んだ。

「…お前何時間目に保健室に行った?」
「────膝、大丈夫ですか」
「聞いてたなら言いたいこと分かるな!」
「長い間付き合ってても俺のこと分かんないんでしょう?」
「……」

薄暗いのを幸いに、笠井はぐっと手を握る。爪を手の平の柔らかい肉に食い込ませて、耐える。
笑顔みたいなものをつくろって。

「────楽しかったですよ」
「そう言うこと聞きたいんじゃねぇよ」
「大嫌い」
「…笠井」「あんたなんか嫌い…」
「…俺の目見て言えよ…」

俯いてしまった笠井の負けだ。
泣きそうな三上の声にそっと顔を上げれば乱暴にキスが降ってくる。抵抗なんて思いつかずにそれを受けて、応えるように舌を絡ませた。
何度となく交わした行為だけれど。

「笠井…」
「…別れて下さいね、」
「…変なセリフ」

三上が呟いて、笠井はひとりで部屋を出た。

 

*

 

不思議なほどあっさりとそれは終わった。
長かった今までは何だったのかと三上は思う。結局笠井の目的も意図も分からないままだった。
日に日に思いは募り、薄れていく。
半ばやけくそになって、笠井の調子に付き合った。渋沢に朝起こしてくれるように頼む。しかしそれは一応頼んだだけで、三上の寝起きは皆が言うほど悪くない。甘えのような演技だったのを、笠井だって気付いてたはず。

(笠井の、アホ)

絶対俺のこと好きな癖に。
これから先を全て受験に費やして、それでもいいかもしれないと思うのは、…そして笠井の意図に思い当たる。

(…笠井のバカ)

こっちの気持ちは黙って風化させられるほど安くないのに。
以前みたいに挨拶をして、軽口を叩き合って、付き合ってるままのような会話を交わす。意味が読めなくて実感がない。

(…大学、どーすっかなァ)

学校の住所ばかりが気になった。
そんな状態のまま、季節は風に乗って流れていく。

 

 

 

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